家康の江戸城は史上空前最強の城2020/06/06 06:56

 では、俵元昭さんの言われる、先年、重要文化財に指定された旧幕府の普請 方甲良家の文書にある類図とは、どのようなものか。 東京都教育委員会のホ ームページに、東京都文化財めぐり「皇居散歩コース」、東京都立中央図書館特 別文庫室の「甲良家の図面で江戸城を歩く」という資料がある。 同特別文庫 室では、代々江戸幕府作事方の大棟梁(大工の棟梁を束ねる役職)甲良家に伝 わる資料を多数所蔵しており、そのうち「江戸城造営関係資料」646点は、国 の重要文化財に指定されている。

 江戸幕府の作事方とは、建築部門を司る役所で、江戸城に関しては本丸と西 丸の表と中奥、つまり大奥との境までを担当する部署だった。 そのため、都 立中央図書館所蔵の造営関係資料も、江戸城の中枢・本丸御殿と世継ぎや大御 所が暮らす西丸御殿の表と中奥の図面が大半だ。 作図年代も、再三火災で焼 失した江戸城の最後の本丸御殿となった万延元(1860)年の建築図面が大半を 占めているという。

 昨日引いた松江歴史館の「謎に包まれた家康築城時の江戸城を描いた最古級 絵図の新発見」という配布資料の中に、[参考]として都立中央図書館特別文庫 室所蔵の「慶長江戸絵図」があり、松江歴史館所蔵の「江戸始図」を90度右 に回転させ、両方の図の方角を揃えて、比較しやすいようにしている。 この 「慶長江戸絵図」が、甲良家の「江戸城造営関係資料」の中にあるのであろう。

 配布資料に、「江戸始図」の江戸城中心部を拡大して、「慶長期江戸城の特徴」 を千田嘉博教授が解説している図版がある。 (1)本丸の出入口は織田信長 の安土城、豊臣秀吉の大坂城が用いた外枡形を5連続させた熊本城のようなつ くり。 (2)天守は、大天守と小天守が連立して天守曲輪を構成した姫路城 のようなつくり。 (3)つまり家康の江戸城は、熊本城と姫路城のすぐれた ところを合わせた史上空前の最強の城だった。

古地図、「入り口を正面に表わす名前の縦書き法」2020/06/07 07:45

 俵元昭さんのお手紙には、この発見を伝えたあと、さらに、この幕府普請方 作成図が、入り口を正面に表わす名前の縦書き法の始まりはいつ頃であったか、 実に法隆寺以来の和風建築図の作成に至る大問題に行き着くことを考えたけれ ど、さすがに、そこまでは寿命や建築学、宮大工研究などが必要で及びません、 とある。 「入り口を正面に表わす名前の縦書き法」について、ご著書『江戸 の地図屋さん』(吉川弘文館)を読んで書いたことがあったので、引いておく。

     等々力短信 第1002号 2009(平成21)年8月25日

                『江戸の地図屋さん』

 世の中、知らないことばかりだということを、またまた思い知った。 千号 を過ぎてもネタに困ることはなさそうだ。 千号に際して、俵元昭さんからご 著書『江戸の地図屋さん 販売競争の舞台裏』(吉川弘文館・2003年)を頂戴し た。 俵元昭さんには、短信に正続『半死半生語集』と『素顔の久保田万太郎』 (すべて学生社/677・705・722・723号)や「江戸切絵図の誕生」(863号) の話で登場していただいている。

 五街道雲助の「髪結新三」に始まり、ブログの日記で江戸の日本橋を散歩し ている。 この散歩には、手元の本にある「分間江戸大絵図」や「江戸切絵図」 が欠かせない。

 そこで『江戸の地図屋さん』だが、こんなことをご存知だったろうか。 江 戸の古地図に書き込まれた屋敷などの文字が、縦書きで四方八方、自由勝手な 向きに書いてあるのはなぜか? 文字の書き出しの頭が、門・玄関など、路面 からの入口の方にあてられているのだそうだ。 屋敷などの単位面積は当時、 現在と比べものにならないほど広かった。 この工夫がなければ、入口を探し て大回りしなければならなかったのだ。 「分間江戸大絵図」の「分間」とは 何か? 図上の長さの一分(一寸の1/10)が現地の実際の何間(十間とか十五 間)を示しているかという縮尺をいう言葉で、正確には「ぶけん」と訓むべき だろうが、今日では「ぶんけん」と読む習慣になってきたという。

 家康の江戸入国(天正18(1590)年)から数えて80年の、寛文10(1670) 年「江戸図の祖(おや)」と呼ばれる五枚組の『新板江戸大絵図』を遠近道印(お ちこちどういん)が制作した。 「絵図」というと測量していない絵画的な肉 筆見取り図といった印象があるが、実はこの地図、科学的な測量方法で、計測、 作図された航空写真並みに正確な地図だった。 この後、多数の地図製作出板 業者が激烈な競争を展開する。 明和6(1769)年に至って、携帯に便利な折 本江戸図『新編江戸安見(あんけん)図』が登場、以来74年間を超える超ロ ングセラーとなる。 「江戸切絵図の誕生」は幕末近い弘化3(1848)年だっ た。 お屋敷が沢山ある番町へ猟官請託や商品納入に行く下級武士や町人が、 番町の入口麹町の荒物屋・近江屋で道を聞く。 あまり聞かれるので、ついに 地図を刷った、素人ならではのブレイク・スルーだ。 一旦は正確な江戸図が 完成した後、二度の大変化を経て、歪んだ不正確なものに後退する半面、長年 の創意工夫の結実した便利で実用的な究極の切絵図に達し、爆発的に売れたの が面白い。

「大元神楽」と「神職神楽等演舞禁止令」2020/06/08 07:15

俵元昭さんのお手紙のもう一つのトピックスは、2018年1月25日の「等々 力短信」第1103号に「俵元昭さんと「石州神楽」研究賞創設」を書いた時、 友人に「明治の神道国教化以来、神職が神楽舞を禁じられた」というのはどう いうことかと聞かれ、いろいろ調べ、俵元昭さんにもお聞きして、下記の日記 を書いた問題についてであった。

「王政復古」と明治の国家神道<小人閑居日記 2018.2.9.>

「国家神道とは何か」神社無宗教論<小人閑居日記 2018.2.10.>

神職神楽舞禁止令という法律<小人閑居日記 2018.2.11.>

 結論を先に言えば、上記の問題について、第1回「大元・石見神楽 研究賞」 優秀賞受賞作、小川徹さんの「ふるさと浜田に生きる私の石見神楽論」が、石 見郷土研究懇話会発行の『郷土石見』113号(2020年5月)掲載された中で、 初めて以下のように活字化されたという報告だった。

 「託宣や神職が演舞に関わる大元祭祀(大元神楽)は、明治6年(1873)1 月、太政官布告で達された「梓巫女、市子、憑、祈祷、狐下ケ、等の所業禁止」 いわゆる拝み祈祷、神がかりの禁止令や、明治3~5年(1870~72)に神祇官、 太政官、教部省から達された国家神道神職に対する取り決めにおいて、神職が 神楽等を演舞することを禁止され、取りやめなくてはならない状況となった。」 と。

 小川徹さんの「ふるさと浜田に生きる私の石見神楽論」は、「大元神楽」に対 する誤解と大元祭祀について、こう整理する。 「大元神楽」とは、本来、石 見地方一円で執り行われてきた大元信仰に基づく式年祭のことであり、その中 には神事から神楽、地域の取り組みまで全てが含まれる。 つまり、式年祭の 中で演じられる神楽舞のみを指すものではない。 「石見神楽」は、邑智(お おち)郡で生まれた「大元神楽」が、石見地方各地に伝播したものというのは 誤解で、実際はあくまでも大元信仰を根底とする祭祀の中で舞われてきた舞(神 楽舞)が、現在の石見神楽で「儀式舞」「能舞」という舞の基となった。

 石見地方の神社には、例大祭や各祈願祭といった数ある祭祀の中に、数年に 一度の大祭「式年祭(大元祭)」がある。 これは、大元信仰を基として、五穀 豊穣を寿ぎ、祖先に感謝し、氏子繁栄を祈ることを目的に行われた。 そして、 その祭りや舞を「大元神楽」「大元舞」とも呼んでいた。 大がかりな祭りにな るため、各郡あるいは近隣の神職組単位で執り行われていた。 江戸時代から、 既に、神へ向けての儀式的要素の強い舞と、ストーリー性のある面をつけた能 舞の二種類の舞を奉納する形式が定着していた。 儀式舞と能舞(神能)が行 われる最中に、神がかりと託宣の儀式が行われる一連の流れが確立されていた。  石見国の各郡が大きく時を違えず執り行った祭り(大元祭祀)であろうと考え られ、どこが起源であるという明確な証拠は現段階では存在しない。

 そして、明治となり、最初に引用した太政官布告や神祇官、太政官、教部省 から達された国家神道神職に対する取り決めにより、神職が神楽等を演舞する ことを禁止された。 特に人の往来が盛んであった沿岸部の地域では、那賀郡 浅井村(現浜田市浅井町)に県庁が置かれ、当地出身の国学者、神道学者の藤 井宗雄が、県内神社取調のために出仕していたため、ことさら中央官職からの 達しは履行せざるを得なかったと推察できる。

 このいわゆる「神がかり禁止令」や「神職神楽等演舞禁止令」の影響は、石 見地方に限ったことではなく、日本全国に及んだ出来事だった。 しかし、そ のような状況下、邑智郡や那賀郡の山間部では、達しを完全に履行することな く、託宣と神職の神楽への関わりを含む大元祭祀を残してきたため、その祭祀 形式が今日まで残されることとなったのである。

 以上、私の関心のあった問題について、小川徹さんの論文を紹介した。

「石州神楽」の神がかりと託宣2020/06/09 06:49

 「石見神楽」に残されている、神がかりと託宣の儀式が、よく話題になる。  託宣とは「神に祈って受けたおつげ。神託。」である。 そこで、昨日書いたこ との理解のために、『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「大元神楽」を引いて おく。

 「おおもとかぐら。島根県邑智(おおち)郡一体と江津(ごうつ)市、浜田 市の一部で大元神の式年祭(5年または7年、あるいは13年目ごと)に行われ る神楽。出雲(いずも)流神楽の一つで、大元舞ともいわれる。祭場は今日で は神社の拝殿に多く設けられ、東方の柱を本山(もとやま)、西方の柱を端山(は やま)としてそれぞれの柱に俵を結び付け、ここに集落の祖霊神的性格をもつ 大元神ほか諸神を勧請(かんじょう)し、中央につるした天蓋(てんがい)の 下で神楽が行われる。この神楽はもと神職のみの執行であったが、明治以降は 神事および神事的な採物舞(とりものまい)を神職が受け持ち、演劇的要素を もつ神能(しんのう)の演目を各集落の舞手が担う。「御綱(みつな)祭」の段 に至ると、藁蛇(わらへび)を通して神霊が託太夫(たくだゆう)の体に憑依 (ひょうい)し失神状態に陥った託太夫が神託を発するという、今日では数少 なくなった神がかり、託宣の形態がみられ、このような古風を残している点に 大元神楽の特色がある。国の重要文化財に指定され、2004年(平成16)には 江津市に大元神楽伝承館が開館した。[高山 茂]」

 そして、本日の題を「石州神楽」としたことについて、改めて「等々力短信」 の「俵元昭さんと「石州神楽」研究賞創設」を引いておきたい。

  俵元昭さんと「石州神楽」研究賞創設<等々力短信 第1103号 2018.1.25.>

  「等々力短信」を毎月お送りしている俵元昭さんから、年賀状に代るお手紙 と、新聞のコピーを頂いた。 俵さんは、福澤諭吉協会で知遇を得た大先輩で、 1929年島根県浜田市生れの88歳、著書共著に『港区史』『江戸図の歴史』『東 京百年史第四巻(大正篇)』『江戸情報地図』などがある歴史研究家。 『三田 評論』『塾』にも、「抵抗の気脈」「慶應風土記」「義塾の先人たち」などを連載 された。 私も短信で、ご著書『半死半生語集』(学芸社)、『素顔の久保田万太 郎』(学生社)、『江戸の地図屋さん』(吉川弘文館)を紹介させて頂いたことが ある(675号、722号、723号、1002号)。

 1956年に慶應義塾大学文学部史学科を卒業した俵元昭さんが、民俗学の池田 弥三郎教授に師事して書いた卒論が「石見神楽舞の問題点」だった。 故郷の 島根県西部には浜田界隈から普及した石見神楽、その双生児で江津市内に伝え られた重要無形民俗文化財の大元神楽がある。 今の石見神楽は、明治の神道 国教化以来、神職が神楽舞を禁じられて、浜田浦大元神社の田中清美らから近 郊農民に伝えられ、氏子の望む露店同様に、祭りに参加する形で、国教神道に 反して神楽を残した。 この穏やかな石見的抵抗で、人気の蛇舞や不可解な鍾 馗を発明継承し、増殖した各社中が共同交代で上演する常設社殿を設け、海外 からも招かれ、リクリェーション行事や観光資源的発展を続けている。 大元 神楽も戦後、牛尾三千夫宮司によって発見され、明治の神道国教化以来、官憲 に秘して続けた、神がかりによって神のお告げを聞く「託宣」など古い儀式を 残した貴重な神楽だった。 俵さんはこれらを、山陰の山陰たる石見の風土に して初めて成立した、内的潜行と外的発揚の正反対の存続に成功したものだと する。 自発的民衆行動だった両神楽は、併せて「石州神楽」とも唱えるべき 神事芸能なのだ、と指摘している。

 俵家はかつて幕末には浜田城下の大年寄として、家系を350年つないできた そうだ。 米寿に達して、故郷を想起した俵元昭さんだが、もはや自身で研究 を進めることは叶わなくなったので、家郷の人たちに期待することにしたとい う。 2017年12月20日付『山陰中央新報』は一面で、「大元・石見神楽 研 究賞創設」「郷土研究懇 浜田出身者の寄付活用」と報じた。 神楽の一層の発 展のためには、価値を裏付ける学術的なアプローチが必要だという、俵さんの 私財を投じての賞創設の提案を、小学校時代の同級生、岩町功石見郷土研究懇 話会会長(88)が受けて、話がまとまった。 募集対象は、聞き書き、自身の 体験記、探訪記、観察記録、神事文献文書、お囃子・伴奏・芸能的研究等、種 類は問わない。 3年に1度で、当面10回程度の継続を想定、俵さんからの寄 付は数百万円程度の見込みだとある。 初回は2018年7月末〆切。

「藍は新月に仕込み、満月に染め始める」2020/06/10 06:49

 5月31日放送の「日曜美術館」「アートシーン特別編」、「アーティストのア トリエより―染織家志村ふくみ」が素晴らしかった。 2014年6月29日放送 の「日曜美術館」を再構成し、現在のウィズコロナの社会に対する志村ふくみ さんのメッセージも伝えていた。

 俳句を詠むことで、まがりなりにも旧暦を意識することがある私には、藍染 のところで、「藍は新月に仕込み、満月に染め始める」というのが、強く印象に 残った。 十月、藍を仕込む。 藍の葉を発酵させた蒅(すくも)、灰汁(あく)、 酒、石灰を、地下の藍瓶(がめ)に注ぐ。 仕込み終ると、みんなで柏手を打 って祈る。 発酵に、二週間かかる。 ある時、志村ふくみさんたちは、月の 満ち欠けに合わせて作業を進めると、上質の染料が出来、藍が美しく染まるこ とに気付いた。 染色が自然と分かちがたい営みの中にあることを確信した。  「藍は新月に仕込み、満月に染め始める」。

 仕込みから十五日、藍の状態を見る。 志村ふくみさんは藍瓶に指を入れ、 舐める。 「ピリッとしたような、甘い感じがいい」という。 昔は瓶に首を 突っ込んで、舌で舐めた。 だからベロメーター、と笑う。 よく出来た色が 「染めてよ」、「染めて下さい」って、言ってるようなもの。

 糸を染める。 藍瓶に浸し、最初に引き上げた時の、糸の色を「奇跡の色」 と呼ぶ。 一瞬、緑、それがパッと消えて、青になっていく。 「誰が仕組ん だことでもない、自然が瞬間に私たちに見せてくれる幻なんです、それが不思 議。 この謎は、永遠に解けないかと思う。 不思議ですよ、命じゃないです かね。 色に命があることを教えてくれたのは藍。 そういうものがなかった ら、色は色だ。 でも、私たちは、色は色でないと思っている、ひょっとして、 色は色ではないんじゃないかという思いで色を染めている、色を出している。」

 志村ふくみさんは、染色にかける思いを、「一色一生」という言葉で表わす。  命宿る色に生涯を捧げる、染織家・志村ふくみさんの誓いだ。

 今年、95歳になる志村ふくみさん、新型コロナウィルス感染症の拡大に、草 木染のマスクをつくっているという。 こんなメッセージを寄せた。

 「この厳しい時代に、人間が強く求めるもの、その究極は、美しいものだと 思います。 悲しいこと、今の苦しいことを含めての、美しさ。 本来、人間 は素朴で、そういう美しいものをひたすら求めてきました。 知識なんかじゃ ない。 救いになるものは、美ですよ。」