水力利用の製紙会社と紡績業計画2020/07/03 06:43

 鎌倉由比ガ浜に、かいひん荘鎌倉という有形文化財の瀟洒なホテルがある、オーナーの井上さんのおばさんが、富士製紙の社長だった村田一郎の邸宅を買ったもの。 庭に村田の置き土産の不思議な形の灯籠と蹲がある。 製紙道具のグラインダーストーン、材木を砕いてバルプをつくる日本初アメリカから輸入した機械の、丸くて穴の開いた臼のような部品を使っている。

 村田一郎は、安政4(1857)年薩摩生まれ、先祖は藩の御用商人で、一郎の叔父林徳左衛門は複数の船を所有して海運業を営み、西郷隆盛、大久保利通とも通じていた。 明治5(1872)年、新政府は大久保の推進で地券を発行、林は大久保から紙の製造を持ち掛けられた。 紙の需要が多くて、和紙では間に合わず、紙幣の用紙まで輸入していた。 叔父に頼まれた村田一郎は、17歳でアメリカに渡り、製紙を学ぶ。 村田一郎は、昨日、冒頭で述べた、当時の製紙会社、紡績会社の経営に深くかかわることになる。 水力利用というメインの考え方を持った一人だった。 明治20(1887)年富士製紙を設立、明治22(1889)年富士工場をつくり、亜硫酸法と砕木法で木材パルプをつくるのに水車動力を利用した。 副社長から社長(明治24(1891)年から明治41(1908)年)になった。 大正13(1924)年鎌倉に邸宅を建てる。

 相模原市公文書館に、村田一郎が発起人の、明治39(1906)年の道志川水流使用承認願があった。 紡績業に利用するものだったが、認可が下りなかった。 村田の事業を引き継いだ人物が、森陳明(つらあき)の孫、吉村三木三郎だった。 5年越しの計画は完成しなかったが、戦後、道志ダム(奥相模湖)が出来て、村田一郎と吉村三木三郎の先見の明が明らかになった。 明治43(1910)年、三木三郎は村田の四女静と結婚する。 勝ち組薩摩と、負け組桑名の結びつきで、三木三郎が有能な人だったからだろうという。 そして村田一郎は鶴田真由の高祖父となり、吉村三木太郎は曽祖父となる。

 明治39(1906)年、村田一郎は日本統治下の台湾の恒春で、台湾恒春興農社をつくり、サイザル麻の栽培を始め、当時、軍事用などでマニラ麻が払底し、需要の多かったサイザル麻ロープを製造する台湾繊維をつくり、現地のトップに就く。 日本が去った後も、台湾に一つの産業を残したのである。