父方は別府温泉のホテルニューツルタ2020/07/04 07:09

 鶴田真由の父方は、別府温泉のホテルニューツルタだった。 ルーツは大分県佐伯市にあった。 初代の高祖父兵吉は、佐伯藩の武士で小谷姓だったが、何かの理由で息子の道造(曽祖父)を連れて、佐伯を逃れ別府に移ったと、現在の当主鶴田浩一郎(真由の従兄弟)は言う。 別府の菩提寺圓正寺で、兵吉が庄屋の鶴(雨に隺)田家に助けられ、勤勉と人物によって鶴田姓を許されたとわかる。

 番組が佐伯市を調べると、道造の出身地とあった四浦(ようら)半島の先端、高浜に小谷姓の家が一軒あり、事情を知っていた。 リアス式海岸で、黒船来航の前年には、清国の漁船が漂着したような場所だった。 豊後水道を見渡す高台に、家の跡と小谷兵部守(実名大谷徳蔵)の墓があった。 二本差の武士で半農半漁、旧佐伯藩(毛利家)から、海岸の警固を命じられていたが、大きな秘密に触れ(見つけてはいけないものを見つけた)、明治3(1870)年45歳で毒殺されたという。 後にその墓を建てたのは、鶴田道造・萬吉兄弟だった。 明治5(1872)年、兵吉は、13歳の息子道造を連れて出奔した。

 初代の高祖父兵吉(文政7(1824)年生)は、鶴田姓を許された別府で網元となり、二代道造(曽祖父)は、200人の網子を抱える大きな網元となった。 明治6(1873)年には、別府港が開港される。 折からの別府温泉の興隆にのり、鶴田家は、旅館業を始める。 5月13日の「「湯治舟」がわからなかった」に書いた時期で、別府港のすぐそば、海岸の好立地で、繁盛し、代々議員なども務めた。 祖父勘一と結婚した祖母栄子がやり手で、がっちりしたスタッフを育てて、旅館を大きく発展させた。 面倒見がよく、画家などが長く逗留し、宿賃代わりの絵がたくさん残っている。 戦中、傷痍軍人の宿や病院として使われ、戦後は、進駐軍に接収された。 真由の父は、勘一・栄子夫妻の六人の子供の末っ子で四男の剛司、逗留の画家の影響を受け、絵を描き、東京芸大を出て、三菱電機の工業デザイナーとなる。

 鶴田真由の母方、吉村三木太郎の子泰明(祖父)は東京帝大(地質関係専攻)を出て商工省の官僚となって世界を飛び回り、外務省の嘱託として昭和15(1940)年新婚の妻嘉子とともに香港の日本領事館に駐在した。 同じ、領事館に勤めていた中国人シウロン・ロー(東京帝大出)と家族ぐるみの付き合いをし、昭和18(1943)年に生まれた順(真由の母)と、シウロン・ローの息子ティモシーも仲良くなる。 吉村家は、本郷から鎌倉に越した。

 一方、別府の鶴田家の四男剛司は、東京芸大を出て三菱電機の工業デザイナーとなり、昭和39(1964)年会社からアメリカのイリノイ工科大学に留学した。 学生寮で出会ったのが、香港から留学していたティモシー・ローだった。 剛司の社宅は鎌倉にあった。 帰国する時、ティモシーから、鎌倉の吉村家に顔を出し、土産物を届けてくれるように頼まれた。 江ノ電の駅で、赤い傘を差して出迎えたのが、順だった。 剛司と順は恋に落ち、二年後に結婚、昭和45(1970)年、真由が生まれる。