戦国、世界史の中の日本、家康とオランダ2020/07/09 07:11

 5日東京都知事選挙結果速報後に放送のNHKスペシャル「戦国~激動の世界と日本(第2集)」「ジャパン・シルバーを獲得せよ 徳川家康×オランダ」が面白かった(ナビゲーター西島秀俊)。 (第1集)「秘められた征服計画 織田信長×宣教師」は、見ていなかった。 (第1集)の番組案内は、「ヨーロッパの16世紀の文書が公開され、信長・秀吉と、来日したキリスト教宣教師、そして背後にいたポルトガルとスペインとの深い繋がりが見えてきた。それぞれの思惑と、熾烈な駆け引きを描く。」とある。

 慶長5年3月16日(1600年4月29日)オランダの商船リーフデ号が豊後国臼杵の佐志生(さしう)に漂着した(臼杵は、鶴田真由「ファミリーヒストリー」で先祖のいた佐伯よりさらに別府寄りだ。) 日本に来航した最初のオランダ船で、ロッテルダムの東方貿易会社が1598年東洋貿易に派遣した五隻中の一隻で、300トンの木造帆船。 生存者24名(直後に3人死んだ)、船長クワケルナック、高級船員ヤン・ヨーステン、イギリス人航海士ウイリアム・アダムスを、徳川家康は優遇した。

 番組では、漂着した船は、日本との貿易が目的で、武器弾薬が多数積んであった、とした。 オランダは1568年に新教徒がスペインに反乱を起こし、1581年に独立を宣言した独立戦争の最中の新興国で、スペインが植民地での富でつくった無敵艦隊の軍事力に対抗するため、貿易によって富国強兵を図る東洋貿易の模索中だった。 豊臣方と対抗している家康は、オランダの貿易の意図を面白がり、漂着したオランダ人らを家臣とする。 半年後の慶長5年9月15日、関ヶ原の戦いで徳川方の嵐のような鉄砲の弾丸が豊臣方を襲う、漂着船積載の武器弾薬の火力は圧倒的だった。

 それは世界的にも、激動の時代だった。 1602年、世界初の株式会社、オランダ東インド会社(VOC)が出来た。 特許状は、外国領主との条約を結び、兵士を雇い要塞を築き、貨幣を作る権利まで、貿易に関するあらゆる権限が認められていた。 貿易戦争で、スペインと対抗するためである。 家康は日本との貿易を許可する朱印状をクワケルナックに与え、1609(慶長14)年オランダ東インド会社の船が九州平戸に到着、同年、平戸にオランダ商館が開設され、ジャック・スペックスが初代商館長となった。 番組の最初を見落としたが、ジャック・スペックスの報告書簡の文書がオランダ国立公文書館で発見されたことによって、新たにいろいろなことが明らかになったらしい。

ジャック・スペックスは有能なビジネスマンだった。 スペインの財力を支えている一つはアメリカ大陸のボリビア銀山だったが、オランダはスペインの銀の独占を切り崩したいと、スペックスは銀山王国の日本に目をつけて、内密に佐渡の銀山を調査した。 家康は、関ヶ原直後に佐渡を押さえた。 佐渡の銀山は石英脈を追う野天掘りで、五万人の労働者が昼夜交代で掘る、シルバーラッシュを迎えていて、世界トップクラスの銀山だった。 日本各地の銀山は、年間10トンを超える銀を産出した。 スペックスは家康と交渉し、毛織物、色とりどりのガラス、最高級の鏡などと銀を交換しようとしたが、家康は兵器を要求した。

(7年前、「世界一の銅産出量、長崎出島と大坂屋」<小人閑居日記 2013. 3. 23.>に、江戸時代、オランダを通じて秋田・阿仁の銅が世界経済を動かした話を書いていた。)

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