浅見雅一著『キリシタン教会と本能寺の変』を読み始める2020/07/29 07:21

25日の「等々力短信」第1133号に「戦国時代の日本と世界史」を出し、最後に「9日~16日のブログに詳しく書いたので、用心しながら、お読み下さい。」と書いた。 すると、「用心しながら」というのは、どういう意味かという問い合わせが二、三あった。 例えば、「キリスト教や仏教を信仰している読者を配慮してか、GAFAの世界征服に注意しろか、前門の虎米国と後門の狼中国の間で右往左往する日本政治への批判か、短信は政治的、宗教的、歴史的に中立ですよと言う意味か、それとも単に眉に唾付けての意味か?」というように。

実は、これ、最初「眉に唾つけて」と書いて、前段の「知らなかったり、本当かと思うことが多い。」を受けて、「用心しながら」にしたのだった。 宣教師達の報告書や書簡、オランダ平戸商館長の記録など、原典の検証や傍証が必要だと思ったのだった。  あの番組では、国家としてのスペインやポルトガルと宗教勢力イエズス会との関係がどうなっていたのか、明確に描かれていなかったように思われた。 ちょうど、新聞の書評で浅見雅一著『キリシタン教会と本能寺の変』(角川新書)という本があることを知ったので、まずそれから読んでみることにした。

浅見雅一さんを知らなかったが、1962年生まれの慶應義塾大学文学部教授、専門はキリシタン史だという。 書中に、慶應義塾大学名誉教授でキリシタン史研究の第一人者として知られる高瀬弘一郎氏が、『キリシタン関係文書』で、イエズス会日本関係文書について、イエズス会員の書翰、報告書、年報、会議記録、規則、カタログ、会計帳簿に分類している、とあった。 慶應義塾には、この方面の専門家もいたのだ。 脱線するが、「ファミリーヒストリー」で古舘伊知郎の回を見ていたら、戦前のアジアを研究しているという古田和子慶應義塾大学名誉教授と柳沢遊慶應義塾大学名誉教授が出てきて、日本と、併合中の朝鮮仁川や占領していた青島の経済関係を詳細に語っていて、驚いたことがある。

そこで、浅見雅一さんの『キリシタン教会と本能寺の変』を読み始める。 まず、国家としてのスペインやポルトガルと宗教勢力イエズス会との関係の問題はどうか。 イエズス会の宣教師だが、天正9年2月23日(1581年3月29日)京都本能寺で信長と謁見し、歓待され、日本布教を立て直した巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(7月15日のブログでバリヤーノと表記)は、イタリア出身で、ポルトガル人やスペイン人が中心であった日本のイエズス会において異色の存在だった、という。 信長に謁見したこの時、ポルトガルの物産などの珍奇な品々を贈呈したが、偶然に信長が気に入ったので、ヴァリニャーノのアフリカ系の従者も進呈せざるを得なくなった。 この従者は、本能寺の変まで信長に家臣として仕えていたことがわかっているそうで、そのことには、後で触れる。

 私は「等々力短信」に「スペインは全世界を勢力下に収めようと、インドのゴアなどを占領」と書いたが、「スペイン・ポルトガルは」とするべきだった。 ヴァリニャーノは、1574年3月、東インド巡察師(巡察地におけるイエズス会総長代理の権限を持つ役職)としてリスボンを出て、9月ポルトガル領インドの首都ゴアに到着した。 ゴアはインド副王と呼ばれるポルトガルの官僚が統治しており、イエズス会にとってインド管区の中心都市だった。

 ヴァリニャーノは、信長に安土と京都で謁見した第一次巡察で1582(天正10)年まで日本に滞在した後、1590年7月に同じ東インド巡察師の資格で来日、第二次巡察をしたが、これ以前の1587(天正15)年に豊臣秀吉が伴天連追放令を発布していたので、表向きはインド副王の使節、ポルトガルの代表者として来日したことになっていた。 そのような方便は秀吉側にも知られていたようだ、という。