フロイスの報告書「信長の死について」2020/07/30 06:58

 浅見雅一さんの『キリシタン教会と本能寺の変』を読んでいく。 「はしがき」に本能寺の変について、「私自身は、光秀の背後に黒幕がいたとは考えていない。ましてや、イエズス会が信長の殺害に積極的に関与していたなどということはあり得ないと考えている」とある。 当時、京都の本能寺の近くにはキリシタン教会があり、ヨーロッパ人のイエズス会宣教師たちが居住していた。 安土城下にもキリシタン教会があり、そこにもイエズス会宣教師たちがいた。 彼らは、自らの体験した本能寺の変についての報告を執筆し、九州の口之津にいたルイス・フロイス(ポルトガル出身)に送った。 ルイス・フロイスは、アレッサンドロ・ヴァリニャーノの日本巡察に同行して通訳を務めるなど大役を果たして、京都から口之津に移動していた。 私は「口之津(くちのつ)」を知らなかった。  口之津港は島原湾、有明海の入口に臨み、1562(永禄)5年有馬氏によって開港され、南蛮貿易とキリスト教布教の地として知られ、明治初期以来、三池炭鉱の石炭積み出し港として栄えた(1909(明治42)年の三池港完成まで)という。

 フロイスは、京都からの宣教師たちの報告を基にして、後に「1582年の日本年報補遺」となるものをまとめた。 それは1582年11月5日付、口之津発、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書翰としてローマのイエズス会本部に送られ、同本部の文書館で「信長の死について」と表書きされ、所蔵されている。 フロイスは、その後、イエズス会の日本布教史である『日本史』という大著を執筆した。 そこでも本能寺の変の経緯をまとめているが、それまでに執筆された「日本年報」や「日本年報補遺」を基にして編纂されているので、同時代史料という点では史料価値はそれらよりもおおむね劣ると見てよい、という。

 そこでフロイスが口之津でまとめた「1582年の日本年報補遺」=「信長の死について」だが、その基になった宣教師たちの報告は、本能寺の変の時、京都にいた司祭フランシスコ・カリオンの書翰と、安土から苦難の逃避行をした修道士シメアン・ダルメイダの報告である。 問題なのは、その基になった書翰や報告書が現存しないこと、少なくとも現時点では存在が確認されていないことだという。 浅見雅一さんは、フロイスが畿内から送られてきた書翰や報告書を編集したとはいえ、自ら加筆することは意外といっていいほどなかったと考えられるので、基の書翰や報告書の復元はある程度まで可能だと考えている。 そして本書の巻末に史料編として、ルイス・フロイス「信長の死について」を全文、ポルトガル語から翻訳している。

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