信長の中国大陸征服計画と秀吉の朝鮮出兵 ― 2020/08/01 07:02
ルイス・フロイス「信長の死について」は、信長の自己神格化と同じく、日本側の史料には見られない、信長の中国大陸征服計画が書かれている、唯一の史料だという。 海外出兵し、中国大陸を征服したあとには、自分の息子たちに中国大陸を分割支配させる計画だ。
彼(信長)は、毛利を征服し終えて日本全国66カ国の絶対的領主となったならば、中国(大陸)に征服にいくために大艦隊を準備させ、彼の息子たちに諸国を分配することを決意した。 世継ぎの世子、城介殿(ジョーノスケドノ・信忠)には美濃、尾張の両国と甲斐国の国主から新たに奪取した(天正10年3月11日、武田勝頼・信勝を天目山で滅ぼした)4カ国をすでに与えていた。 この者は、生来よい人物であり、我々(イエズス会士)の友人だった。 次男、御茶筅(オチャセン・信雄(のぶかつ))には、ほかの2カ国を与えており、三男、三七殿(サンシチドノ・神戸信孝)は四国に派遣し、今や日本全国の領主となったかのように四国を与えた。 この三男も、つねに我々のよき友人で、神の事柄に心を寄せていた。
浅見雅一さんは、のちに秀吉が中国大陸征服計画を実行に移し、文禄・慶長の役で、その前段階としての朝鮮出兵を行ったことに触れている。 秀吉は、自らを「日輪の子」であると称して、自己の出兵と支配を正当化しようとした。 秀吉の感生帝説とされるもので、こうしたものは東アジア地域ではよくみられるが、信長が行なった自己神格化とは形態は異なるが、自己の支配の正当性を確立するために必要であると考えたのであろう。 それは、中国大陸征服の理論的裏付けとなるものだったのではないか。 信長が中国侵攻の構想を抱いていたのであれば、秀吉の中国侵攻は信長の構想の実現ではなかったのか、と浅見雅一さんは書いている。
「本能寺の変」当日の動き ― 2020/08/02 07:39
「安土山の祝祭(1582年6月2日)から19日を経たとき」、天正10年6月2日(1582年6月21日、木曜日)早朝、「本能寺の変」は起こった。 「信長の死について」は、信長の自己神格化の話に続いて、その3日前に、信長の長男信忠が愛宕神社を参拝したという、信長とは異なる形ではあるが、偶像崇拝行為を実施したことに触れている。 信忠は、キリシタンの教えに関心を示していたうえに、イエズス会士たちとは良好な関係を保っていたので、彼が愛宕神社を参拝し、願をかけたことは、イエズス会士たちの期待を裏切るものだったのだろう。
天正10年6月1日(1582年6月20日、水曜日)、明智光秀は、信長、信忠父子が兵力を持たずに京都に滞在するのを見て、殺害計画を実行することを決意した。 丹波国の亀山城に兵力を結集し、四名の重臣に謀反の意志を打ち明ける。 夜中に出発、明け方に京都に到着、約三万の兵で本能寺を包囲し、討ち入った。 「彼らは、侵入すると信長を見つけた。彼は、手と顔を洗い終えてタオルで拭っていたが、兵士たちは、すぐに彼の背に矢を射た。信長は、これを引き抜き、鎌のようなもので長尺の武器である薙刀を手にして出てくるとしばらく戦ったが、片腕に銃弾を受けると自室に退いて扉を閉めた。彼は切腹したと言う者もいれば、屋敷に放火して死んだと言う者もいる。しかし、我々が知っているのは、かつて声はおろかその名だけで人々を畏怖させた人物が、毛髪一本残すことなく灰塵に帰したことである。」
信忠は、近くの妙覚寺にいて、本能寺の変の知らせを聞き、切腹しようとしたが家臣に止められ、二条御所の誠仁(さねひと)親王のもとに身を寄せる。 京都所司代の村井貞勝が明智軍に使者を出し問い合わせると、光秀は誠仁親王は無関係なので御所を出てもかまわないと返事した。 信忠は、誠仁親王を逃がすと、二条御所で明智軍と戦い、建物が焼けて焼死、村井貞勝も討ち死にしている。
7月29日に書いた、ヴァリニャーノが信長に謁見した時、信長が関心を持って進呈せざるを得なくなったアフリカ系の従者(実際には教会が所有していた奴隷だと考えられる)であるが、この時、信長の家臣として本能寺にいて、事態を信忠に知らせるため妙覚寺に向かい、戦っているところをある家臣に見られ、その家臣が刀を差し出すよう促したところ指示に従ったとされる。 光秀に指示を仰いだところ、その人物は、動物であって何も知らないので、パードレたちのいる教会に預けるように命令した。 このことが報告されているのは、彼が教会に無事に保護されたからで、その話を聞いたカリオンらは、光秀が教会には手出ししないことを確認したと思われる、という。 ただし、この人物がその後どうしたかは不詳だそうだ。
正午頃、本能寺の変の知らせが、安土に伝わっている。 光秀は、午前8時か9時に都を離れて、坂本城に向かった。 信長のある家臣が、光秀が安土城に行くのを妨げるために、瀬田橋を落とした。 二日後の土曜日には橋を再建したが、二日間坂本城に足止めされてしまった。
オルガンティーノの逃避行と光秀、右近 ― 2020/08/03 06:58
宣教師オルガンティーノは、1570(元亀元)年来日し、信長の援助を受けながら京都と安土の教会建設に尽力し、キリシタン大名高山右近とその一族の司教(信徒を導くこと)を担当、のちに大坂で細川ガラシャの改宗と司教に対して主導的役割を果たした人物だ。
本能寺の変の知らせを受け、安土は大混乱に陥っていた。 ダルメイダ報告によると、安土の教会のオルガンティーノらは、天正10年6月3日(1582年6月22日、金曜日)、神学校の生徒たちを連れ、28名で琵琶湖の沖島へ脱出、ヴィンセント修道士など一部の者が安土に留まった。 この避難は、琵琶湖の海賊の船を使った取引だったが、事前の約束を無視して所持品の半分を要求する海賊に殺される可能性もあった。 あるキリシタンの甥(異教徒)が、光秀に寵愛されていて、その甥とヴィンセント修道士が別の安全な船を雇い入れて沖島まで迎えに来た。 一行は助かり、海賊から隠匿していた貴重品も無事だった。 その若い甥は、光秀からの使者で、光秀の高山右近宛の書状と、オルガンティーノ宛の伝言を携えていた。 光秀は、キリシタン教会の人脈を利用しようとしていただけでなく、オルガンティーノが坂本城に来ることを知っていたか、あるいは期待していたのだ。 オルガンティーノは、この人物に右近宛の書翰を二通託した。 日本語で書かれたものと、ポルトガル語(ローマ字表記)のもので、日本語では右近に光秀への協力を促し、右近だけが読めるローマ字では、たとえ自分たちが十字架にかけられようとも光秀に協力してはならないと書いていた。
オルガンティーノは、光秀の息子に会うため、わざわざ坂本城に赴いた(死を前にしての霊魂の救済、洗礼を授けるためと推測している)。 光秀の嫡子「十五郎」(少年)だと考えられる。 キリシタンではなかったが、キリシタン教会とは近い位置にいたと思われ、京都まで避難するための案内役に、自分の家臣を付けると申し出たが、オルガンティーノは通行を保証する書状だけで十分だと答え、その書状は実際に役立った。 光秀自身はキリシタンではなく、改宗する意図もなかったと考えられるが、キリシタン教会とは非常に近い位置にいた。 しかし、キリシタン、とりわけ高山右近が自分に味方しないことはわかっていたという。
明智光秀は、なぜ謀反を起こしたか ― 2020/08/04 06:59
浅見雅一さんは、第四章「光秀の意図」で、周辺の動きを考察する。 光秀は、6月3日に細川藤孝に援軍を要請したらしい、藤孝の息子、忠興の妻は光秀の娘・玉(のちのガラシャ)という姻戚だから、当然期待したところ、藤孝は突如家督を忠興に譲り、剃髪した。 忠興と交渉してくれという返事だったが、忠興も剃髪してしまった。 光秀は、かなり状況が逼迫していたのだろう、9日に二度目の要請をして、政権を自分の息子の十五郎と娘婿の忠興に譲りたいと申し出たが、細川家はこの要請も断っている。
浅見雅一さんは、光秀は、オルガンティーノが高山右近に、光秀に与しないように促すであろうと推測していた可能性があるとする。 それでも教会に危害を加えようとしていないのは、息子たちのことが念頭にあったからではないか。 本能寺の変のあと、右近は、光秀に与しなかっただけでなく、光秀を討つ側に回っている。 しかも、坂本城の攻略では、右近が先鋒を務めており、明智秀満が率いる籠城側は戦うことなく自刃しているのだ。
浅見雅一さんが「本能寺の変」に興味を持ったのは、妻で青山学院大学准教授の安廷苑(アンジョンウォン)さんが『細川ガラシャ―キリシタン史料から見た生涯』(中公新書)を執筆中、ガラシャが変を起こした父をどう思っていたのか、右近を恨んでいなかったのかと、訊かれたのがきっかけだったそうだ。 安廷苑さんによれば、ガラシャに洗礼を授けることを決めたのも、司教(信徒を導くこと)を担当したのも、オルガンティーノであった。 浅見雅一さんは、オルガンティーノは、父光秀のこと、坂本城で自刃した妹や弟十五郎たちのことをガラシャに伝えたのではないか(直接会ったことはない、書翰や伝言でやりとりしていた)、とする。 ガラシャと明智家を結びつけたのは、オルガンティーノ、キリシタン教会だった。
浅見雅一さんは、光秀がなぜ謀反を起こしたか、明智家の存続が脅かされるような事態が発生し、それは信長との関係によるものなので、信長を殺害すれば回避できるからであった、と推論する。 明智家を、もっとはっきりいえば、嫡子十五郎を守ろうとしたのではないか。 そして光秀が、謀反を起こしてまで守ろうとしたものは、娘ガラシャの死に反映されている、とする。 (ガラシャは、1600(慶長5)年関ケ原の戦いで忠興が出陣中、石田三成から大坂城に入り人質になるよう命じられるが拒否、玉造の細川邸を包囲され、家老に自らを斬らせて果てた。) 父光秀の仇である豊臣方の人質になることなど、光秀の娘として到底受け入れられなかったはずである。 彼女が自らの命よりも優先したのは、細川家の存続であり、彼女の息子が家督を継ぐことだった(三男、忠利が継いだ)。
「本能寺の変」という歴史的大事件をめぐって、キリシタン史料を再検討していくと、光秀と子供たちとの親子関係、キリシタン教会がつなげた親子の絆が伝わってくる、と浅見雅一さんは結論する。
織田信長のつくった城 ― 2020/08/05 06:18
城郭考古学者の千田嘉博奈良大学教授が、NHK文化講演会で「戦国の城から歴史を読む」という話をしたのが(6月27日横浜で講演、7月19日放送)、「らじるらじる」で聴ける。 千田嘉博教授には、家康築城時の江戸城、最古級絵図の新発見<小人閑居日記 2020.6.5.>と、家康の江戸城は史上空前最強の城<小人閑居日記 2020.6.6.>にも登場いただいた。 その結論は、(1)本丸の出入口は織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城が用いた外枡形を5連続させた熊本城のようなつくり。 (2)天守は、大天守と小天守が連立して天守曲輪を構成した姫路城のようなつくり。 (3)つまり家康の江戸城は、熊本城と姫路城のすぐれたところを合わせた史上空前の最強の城だった。
「戦国の城から歴史を読む」は、織田信長、松永久秀、明智光秀の造った城を検討し、決定的なところで、城の造り方が違うという。 (松永久秀については、松永久秀、天下人三好長慶のNo.2<小人閑居日記 2020.6.27.>参照。)
信長は、尾張城の生まれとされるが、勝幡(しょばた)城の生まれ、父の信秀は尾張の守護斯波氏の下の守護代の、そのまた下の奉行だったが、海と河川交通の要衝、津島を押さえていて、信長は子供の時から、交易流通の重要性を見ていた。 勝幡(しょばた)城(現在の愛西市、稲沢市)は、広い堀、四角い土手に囲まれ、整った御殿(館・公家の証言)があった。
信長の清洲城(新幹線で通過する)は、まわりに武士の館、さらに町家が囲み、堀で囲む総構えの構造。 元亀3年(1572)年の三方ヶ原の戦いでは、町人も戦っていて、武具商が戦死している。 尾張統一時代の苦労が偲ばれる。
小牧山城。 信長が永禄6(1563)年に築城し、永禄10年に稲葉山城を取るまで、4年間使う。 周辺に城下町を配した、自分らしい拠点をつくった。 千田嘉博さんは、20代でここの論文を書いたが、後の発掘で、研究通りの町が出たという。 小牧市役所前の石畳から、庁舎内に色の違うラインが延びているが、大手道のセンターライン、信長の歩いた道である。 小牧山城は、本格的な城で、大手道は山の上まで延び、中腹からジグザグの道になる。 本丸には、自分の周りを守る立派な石垣、せいぜい3mだがセットバックさせている、を巡らした(当時、全国は土造りの城)。 安土城では、小牧山城からの、技術革新で10mの石垣、人工的に岩を削り、その上に石垣を築いた。 一番上に本丸がそびえる、超特別感、御殿の周りには玉石を敷き詰めた。 家臣の屋敷には、石垣を使わせない。 階層的なつくりになっている。 城下町の一つの原型で、城の形、大名と家臣の関係など、どういう社会をつくろうとしているか、見えてくる。
岐阜城(稲葉山城)、300mの高さ(ロープウェーは当時なかった)なので、信長は麓に暮らしていたと長い間考えられていた。 ルイス・フロイスは永禄16(1569)年に麓の御殿で布教の許可を得、翌日、重臣でも登れなかったクローズドの空間だった、山の上の城へ行った。 信長は、そこで夫人と子供たちと暮らしていた。 昼、信長の息子が食事を運んできてくれた。 プライベート空間は天空の上にあり、家臣と自分は違う、2016年の発掘で濃姫のために建てた金箔の御殿が出た。
安土城。 信長の権威を印象づける。 基本的には小牧山城と同じつくり。 本丸の上に天守、7階建天守台があり、石垣で囲み、外枡形をいくつもつくる。 信長を頂点とする社会をつくろうとしていた。
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