「本能寺の変」当日の動き2020/08/02 07:39

 「安土山の祝祭(1582年6月2日)から19日を経たとき」、天正10年6月2日(1582年6月21日、木曜日)早朝、「本能寺の変」は起こった。 「信長の死について」は、信長の自己神格化の話に続いて、その3日前に、信長の長男信忠が愛宕神社を参拝したという、信長とは異なる形ではあるが、偶像崇拝行為を実施したことに触れている。 信忠は、キリシタンの教えに関心を示していたうえに、イエズス会士たちとは良好な関係を保っていたので、彼が愛宕神社を参拝し、願をかけたことは、イエズス会士たちの期待を裏切るものだったのだろう。

 天正10年6月1日(1582年6月20日、水曜日)、明智光秀は、信長、信忠父子が兵力を持たずに京都に滞在するのを見て、殺害計画を実行することを決意した。 丹波国の亀山城に兵力を結集し、四名の重臣に謀反の意志を打ち明ける。 夜中に出発、明け方に京都に到着、約三万の兵で本能寺を包囲し、討ち入った。 「彼らは、侵入すると信長を見つけた。彼は、手と顔を洗い終えてタオルで拭っていたが、兵士たちは、すぐに彼の背に矢を射た。信長は、これを引き抜き、鎌のようなもので長尺の武器である薙刀を手にして出てくるとしばらく戦ったが、片腕に銃弾を受けると自室に退いて扉を閉めた。彼は切腹したと言う者もいれば、屋敷に放火して死んだと言う者もいる。しかし、我々が知っているのは、かつて声はおろかその名だけで人々を畏怖させた人物が、毛髪一本残すことなく灰塵に帰したことである。」

信忠は、近くの妙覚寺にいて、本能寺の変の知らせを聞き、切腹しようとしたが家臣に止められ、二条御所の誠仁(さねひと)親王のもとに身を寄せる。 京都所司代の村井貞勝が明智軍に使者を出し問い合わせると、光秀は誠仁親王は無関係なので御所を出てもかまわないと返事した。 信忠は、誠仁親王を逃がすと、二条御所で明智軍と戦い、建物が焼けて焼死、村井貞勝も討ち死にしている。

7月29日に書いた、ヴァリニャーノが信長に謁見した時、信長が関心を持って進呈せざるを得なくなったアフリカ系の従者(実際には教会が所有していた奴隷だと考えられる)であるが、この時、信長の家臣として本能寺にいて、事態を信忠に知らせるため妙覚寺に向かい、戦っているところをある家臣に見られ、その家臣が刀を差し出すよう促したところ指示に従ったとされる。 光秀に指示を仰いだところ、その人物は、動物であって何も知らないので、パードレたちのいる教会に預けるように命令した。 このことが報告されているのは、彼が教会に無事に保護されたからで、その話を聞いたカリオンらは、光秀が教会には手出ししないことを確認したと思われる、という。 ただし、この人物がその後どうしたかは不詳だそうだ。

正午頃、本能寺の変の知らせが、安土に伝わっている。 光秀は、午前8時か9時に都を離れて、坂本城に向かった。 信長のある家臣が、光秀が安土城に行くのを妨げるために、瀬田橋を落とした。 二日後の土曜日には橋を再建したが、二日間坂本城に足止めされてしまった。

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