オルガンティーノの逃避行と光秀、右近2020/08/03 06:58

 宣教師オルガンティーノは、1570(元亀元)年来日し、信長の援助を受けながら京都と安土の教会建設に尽力し、キリシタン大名高山右近とその一族の司教(信徒を導くこと)を担当、のちに大坂で細川ガラシャの改宗と司教に対して主導的役割を果たした人物だ。

 本能寺の変の知らせを受け、安土は大混乱に陥っていた。 ダルメイダ報告によると、安土の教会のオルガンティーノらは、天正10年6月3日(1582年6月22日、金曜日)、神学校の生徒たちを連れ、28名で琵琶湖の沖島へ脱出、ヴィンセント修道士など一部の者が安土に留まった。 この避難は、琵琶湖の海賊の船を使った取引だったが、事前の約束を無視して所持品の半分を要求する海賊に殺される可能性もあった。 あるキリシタンの甥(異教徒)が、光秀に寵愛されていて、その甥とヴィンセント修道士が別の安全な船を雇い入れて沖島まで迎えに来た。 一行は助かり、海賊から隠匿していた貴重品も無事だった。 その若い甥は、光秀からの使者で、光秀の高山右近宛の書状と、オルガンティーノ宛の伝言を携えていた。 光秀は、キリシタン教会の人脈を利用しようとしていただけでなく、オルガンティーノが坂本城に来ることを知っていたか、あるいは期待していたのだ。 オルガンティーノは、この人物に右近宛の書翰を二通託した。 日本語で書かれたものと、ポルトガル語(ローマ字表記)のもので、日本語では右近に光秀への協力を促し、右近だけが読めるローマ字では、たとえ自分たちが十字架にかけられようとも光秀に協力してはならないと書いていた。

 オルガンティーノは、光秀の息子に会うため、わざわざ坂本城に赴いた(死を前にしての霊魂の救済、洗礼を授けるためと推測している)。 光秀の嫡子「十五郎」(少年)だと考えられる。 キリシタンではなかったが、キリシタン教会とは近い位置にいたと思われ、京都まで避難するための案内役に、自分の家臣を付けると申し出たが、オルガンティーノは通行を保証する書状だけで十分だと答え、その書状は実際に役立った。 光秀自身はキリシタンではなく、改宗する意図もなかったと考えられるが、キリシタン教会とは非常に近い位置にいた。 しかし、キリシタン、とりわけ高山右近が自分に味方しないことはわかっていたという。

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