久秀・光秀の城、信長の城との違い2020/08/06 06:40

 松永久秀の信貴山城(奈良県生駒郡平群(へぐり)町)は、信貴山真言宗総本山・朝護孫子寺の境内になっているので、そのまま残っている。 大きな久秀屋敷、尾根に家臣たちの屋敷があり、詰め城は共有、中世的な感覚を持っている。

 久秀の多聞(山)城(奈良市多門町)は、若草中学の敷地と、陵墓(聖武天皇陵、光明皇后陵で保護されている)になっている。 久秀は、詰めの丸、西の丸の建築、井戸掘りなどを指示、さらに瓦葺きをし、茶室をつくり、狩野派の絵師なども使っている。 訪れたルイス・アルメイダが、記録に残している。 久秀は、家臣と並んで、城内で暮らしており、白漆喰、杉材、金箔で装飾した美しい城で、四階の櫓(天守の祖型)があった。 全体として、久秀の城は、中世的な城であった。

 明智光秀は、細川家で見つかった古文書「鍼薬方」(怪我の塗り薬)で、永禄8、9(1565、6)年に、高島田中城にいた(明智光秀の前半生を伝える古文書<小人閑居日記 2020.6.29.>参照)。 永禄13(1570)年、信長の先発隊として出陣、天正3(1575)年には惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)に大出世、天正10(1582)年の信長の書状では、毛利との激突に備え、出陣の準備を怠らないように命じて、惟任に畿内の軍事指揮権という重要な権限を与えていた。

 明智光秀が築城した福知山城(福知山市)。 光秀時代に櫓台のあった石垣は、角(隅石)の積み方が「重ね積み」になっている。 安土城の「算木積み」(直方体の石を長短交互に積んで強度を増す)とは違う。 2016年の熊本地震で被害を受けた熊本城の、大天守の石垣は光秀流の「重ね積み」になっていた。

 光秀が天正7~9(1579~1581)年に築いた周山(しゅうざん)城(京都市右京区京北周山町)は最後の城。 航空レーザー測量などで、本丸を石垣で固めており、尾根の上に独立した家臣屋敷がある、並立的な構造とわかる。 家臣の相対的自立を容認していたと思われる。

 信長の城は、求心的構造で、自分自身を天辺に、築城している。 天守を備えた近世の城の原型になっている。 信秀の城は、家臣を横並びにした中世の再生産である。 光秀の城は、近世的要素は取り入れながら、自分中心でない、ほどよい近世、中世と近世の中間である。 それぞれ、どんな「麒麟」を呼び寄せようとしたのか、次の社会や政治を展望できる。 もし、光秀が生き残っていれば、近世の城の形は変わっていただろう。

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