領主光秀の優しさ、信長への我慢の限界2020/08/08 07:03

 番組は続いて、小和田哲男さんが領主光秀の姿に迫る。 京都北部福知山市の福知山城、三層の天守、石垣の斜めの線の右側は光秀時代のもので、よく見ると、所々で石塔、石仏、墓石などを逆さまにして、使っている。 その謎を考えていく。 小和田さんは、光秀の城だけでなく、城下町を守る、領民への思いが、表れているのではないかという。

 城と町のつくり方は、町全体を川や堀で囲む総構えになっている。 氾濫多発の由良川が、城のところで直角に曲がっているが、そこに明智藪と呼ばれる堤防をつくった。 福知山は、若狭湾に至る物流の拠点だった。 町人町を自然堤防の上に、武家町を湿地帯に配した高低差が見られるが、町の繁栄発展のために、領民を思う気持が表れている。 「本能寺の変」後に創建された、光秀を祀る御霊神社に古文書「明智日向守祠堂記」がある。 住民の税を免除する善政を布いて、町は大きく発展した、と。 石塔、石仏、墓石の逆さま使用の謎を、小和田さんは、穢れ(ケガレ)の逆転で、聖なるモノになるのでは、と考える。 領民を安寧に導くというのは、信長とは違う考え方だ。 安土城は、領民を守ろうとするものではなかった。 光秀は優しい、住民たちのために城と町がある。 そうした考え方の違い、我慢の限界が「本能寺の変」となったのではないか、と小和田哲男さんは話した。

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