城とビジョンの違いから「本能寺の変」へ2020/08/09 07:08

 つづいて番組は、千田嘉博さんが、光秀が4年かけて攻略し、自身の城にした黒井城(丹波市)へ行く。 城跡に登ると、四方八方が見渡せ、敵の動きを見るのにベストの高さだとわかる。 壮大な石垣が、城下町からもよく見え、城が見せるための新しいシンボルになっている。 都市的な空間が生まれ、街道を結ぶネットワークを構築している。 光秀は「本能寺の変」の3年前から、4つの連続した外桝形をつくる防御設計をしていた。

 光秀が天正7~9(1579~1581)年に築いた周山(しゅうざん)城(京都市右京区京北周山町)は最後の城。 急登の上に石垣、井戸跡、本丸がある。 航空レーザー測量などで、東西1.3キロ、南北0.7キロ、山城としては破格の大きさだ。 天守の造りが奇妙で中心の四角いものだけでなく、尾根の上にいくつかに分かれて曲輪(家臣屋敷)が独立した城になっている、並立的な構造とわかる。 強い家臣団だった。

 大津市の西教寺は、明智家の菩提寺で、妻煕子(細川ガラシャの母)の墓がある。 光秀が、戦で討ち死にした家臣18人の供養米を寄進した書状が残っている。 身分に関係なく、全員、同じ量の米で、それぞれの命日を記し、こまかいところまで配慮する、すべてを見通した方だった、と住職。

 信長と光秀、それぞれに違う城は、違う世の中を目指していたビジョンの違いを表している。 大名が絶対頂点の城。 それは行き過ぎで、大名と家臣の適切な関係、みんなが意見が言えるような関係、そんな世の中がいい。 目指す社会の選択、国のあり方の違いには、討たざるを得ない必然があったのではないか。 天正10年6月2日、「本能寺の変」は起こった。

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