「グラスゴウ大学日本語試験委員・夏目漱石」2020/08/13 07:10

 加藤詔士先生の「グラスゴウ大学日本語試験委員・夏目漱石」(上)(中)(下)を読んでみよう。 スコットランドのグラスゴウ大学は、1451年創立、英国で四番目に古い伝統がある大学で、日本語を資格試験の選択科目に認めるという歴史をもち、しかもその最初の試験委員が夏目金之助(漱石)であった。 漱石が英国に留学中の明治34(1901)年のことだった。 短期の留学でなく、本科生として学位を取得しようとすれば、卒業までに資格試験の全科目に合格しなければならないという学則があった。 全科目とは、(1)英語、(2)ラテン語またはギリシャ語、(3)数学、(4)現代語の一つ(フランス語、ドイツ語、イタリア語、力学)だった。

 グラスゴウ大学に留学した福沢三八が問題にしたのは第4科目で、フランス人、ドイツ人、イタリア人なら母国語を選択できるのに、日本人留学生は不利だから、日本語試験の実施という条件緩和を求めたのだ。 福沢の発案が具体化するにあたっては、ヘンリー・ダイアーの支援を得ることができた。 日本でエンジニア教育の組織化と実学人材の育成に貢献して帰国したダイアーは当時、グラスゴウ・西部スコットランド技術カレッジの理事やグラスゴウ市教育委員などの要職のかたわら、日本とスコットランドの交流と親睦を推進するために活躍していた。 ダイアーの働きかけに資格試験の合同試験委員会は、日本語、中国語の選択を承認し、そのダイアー宛の書簡を、福沢が大学理事会に提出し、1901年2月7日の教授会で報告され、日本語の選択が承認されている。(その4日前、1901年2月3日、東京三田で三八の父、福沢諭吉が亡くなっている。)

 大学当局は資格試験の第4科目として日本語の承認はしたものの、試験委員を誰にするのか、選任から確保まで、かなり難航した。 グラスゴウ在住の日本通に打診して、試験委員を委嘱されたのは在ロンドン領事館の一等領事、荒川巳次だったが、辞退して、夏目漱石を推薦してきたので、大学理事会および教授会は任命することにした。 理事会議事録には「東京大学教授で現在英国を旅行中の夏目教授」とあるが、この頃、漱石は第五高等学校教授で、英語研究のため留学中だった。

 漱石は、在ロンドン領事館の諸井六郎領事館補が来て依頼を受け、二日後に決定の電報がきたので、問題を作って領事館に送った。 手当は4ポンド4シリング、ロンドン留学中唯一の臨時収入で、当時1ポンドは約10円、漱石の留学費は1カ月150円だったという。

 漱石は春季と秋季の2回、試験問題を作成しているが、それが具体的にどんなものだったかは、残念ながら、不明である。 漱石が出題した日本語の試験を実際に受け、合格した日本人は4名いる。 1901年4月の春季試験の福沢三八、鹿島龍蔵(鹿島建設創業者一族)、佐藤恒二、同年10月の秋季試験の岩根友愛(後の大阪高等工業学校教授)である。 この両試験で、福沢と鹿島は、日本語のほかに英語、上級数学、力学に、岩根は中級数学と力学にそれぞれ合格している。 佐藤は日本語のみに合格。

 グラスゴウ大学では、これ以後も、日本語の受験希望者が現れるたびに試験委員が任命されている。 その後も長く存続し、『グラスゴウ大学要覧』の1970年版まで関連の規定があるそうだ。