秀吉、信雄を擁立して、信孝・勝家を死に追いやる2020/09/02 08:32

秀吉は、信長の葬儀を挙行することで、諸大名に存在感を示した。 そんな秀吉に脅威を感じたのは信孝であり、危機感を共有したのが勝家で、やがて二人は手を結ぶ。 天正10年に比定される11月1日付の秀吉書状、家康配下の石川数正宛に、(清須会議の)誓紙に相違し、勝家の所業で信孝が謀叛に及んだとある。 信孝は毛利方と通じていた。 秀吉は、宿老の長秀、恒興と相談し、清須会議の決定を覆し、信雄を三法師の名代に立てる。 勝家との私戦を避け、互いに織田家の血筋の者を擁立したうえで、どちらが天下を差配するのかを焦点にした。 これで当時まだ秀吉は絶対的な権力を掌握しておらず、織田家や諸将の助力なくしては、単独で勝家・信孝に対抗し得なかったことがわかり、家康にも連絡している。 12月、秀吉は信雄を近江で迎え入れ、信孝討伐のため美濃へ出陣する。 美濃の国衆も味方にして、信孝包囲網が形成され、信孝は秀吉に和睦を申し出た。 信孝は命こそ取られなかったものの、秀吉に屈服させられたのだ。

天正11年4月21日、秀吉軍は賤ケ岳で柴田軍に勝利し、敗北した勝家は居城北庄に逃亡したが、24日勝家と妻のお市は自害し、浅井三姉妹(茶々、初、江)は焼け落ちる北庄城から脱出し、秀吉に保護された。 信雄は、この頃、美濃に攻め入り、信孝は死んだが、詳しい経緯はわかっていない、『多聞院日記』には信雄が命じて切腹したとある。

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