百姓の子が、どうやって関白に就任したか2020/09/03 06:57

秀吉は、京都市中や畿内を掌握するなど、一宿老の枠に収まらない存在となっていた。 天正11年9月、秀吉は大坂本願寺の跡地に大坂城の築城を開始し、翌天正12年8月に入城した。 天正11年冬以降、秀吉は信雄に対して臣下の礼を取らなくなり、危機感を抱いた信雄は、家康と協力して秀吉に対抗する。 信雄・家康との小牧・長久手の戦いで苦戦を強いられたものの、信雄・家康と和睦を結んだ天正12年11月頃から、秀吉は官位を強く意識し出した。 それは本格的に天下人を意識した証左にならないだろうか、と渡邊大門さんは言いつつ、まだ天下は、京都および畿内を意味するものだった、とする。

 秀吉は天正12年11月従三位・権大納言に叙せられ、天正13年3月正二位・内大臣へと昇進した。 その天正13年5月時点で、関白以下の任官状況と以降の就任予定(=()内)は、次のようになっていた。 関白職は五摂家の持ち回りで、関白・二条昭実(一年程度の在職ののちに辞任)、左大臣・近衛信輔(関白(左大臣兼務))、右大臣・菊亭晴季(辞任)、内大臣・羽柴秀吉(右大臣)。 秀吉は、右大臣を極官(最高の位)とした信長が本能寺の変で横死しているので、内大臣から右大臣に転任するのは縁起が悪いと言い出す。 信長の「凶例」を避けるため、右大臣ではなく左大臣への就任を要望した。 この申し出に、朝廷は困惑した。 秀吉の要望を受け入れると、近衛信輔はいったん任官のない状態を経て、二条昭実の辞任後に関白職に就くことになる。 しかし、朝廷は秀吉の要望を受け入れざるを得なかった。 信輔は、「近衛家では元大臣(無官)から関白になったことは今までなかった」と主張し、すぐに昭実に関白職を譲るよう辞任を迫った。 関白就任一年足らずの昭実は、「二条家では関白に就任して、一年以内に辞任した者はいない」と反論、関白辞任を拒否した。 両者の間には険悪なムードが漂い、朝廷での訴訟となり泥沼化、解決困難となった。 「関白相論」と称される訴訟は秀吉のもとに持ち込まれ、配下の前田玄以と右大臣の菊亭晴季に相談したところ、晴季から秀吉を関白職に就けるという奇想天外な提案があった。 秀吉は「いずれを非と決しても一家の破滅となるので、朝家(朝廷)のためにならない」ともっともらしい理由付けをして、自身の関白就任の意向を示した。 晴季の提案とはいえ、あらかじめ秀吉に申し含められた可能性がある。

 しかし、秀吉の関白就任には大きなハードルがあった。 秀吉の出自は、武家どころか、ただの百姓の子だった。 関白は、五摂家のなかでも最高の家柄出身者に限られている。 すでに引退していた信輔の父・前久(さきひさ)は、秀吉を猶子として迎えることと引き換えにして、将来、子の信輔を関白に就けることを約束させる、家名を守るための苦渋の決断をする(8月30日に再開された『麒麟がくる』に、関白近衛前久が登場していた)。 このようなプロセスを踏まえ、秀吉は、天正13年7月、晴れて関白に就任した。 一連のプロセスを秀吉が計画的に仕組んで、関白に就任したという疑惑を拭い去ることはできない。 近衛家との約束は、結局守られなかったからである。 天正19年12月に秀次が関白職を継承し、五摂家に戻さず、世襲化したのだ。

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