光秀の子孫、「本能寺の変」の真相を捜査2020/09/06 07:06

 「等々力短信」読者の池田光璢さんからメールをいただいた。 池田さんと普通部、高校時代6年間同級だった明智憲三郎さんが明智光秀の末裔で、2009年に『本能寺の変427年目の真実』を世に出し、以来10冊ほどその関係の本を出しており、『431年目の真実』(文芸社文庫)は最初の著書を増補改訂して出したものだという。

 私は『本能寺の変427年目の真実』を読んでいなかったが、池田さんが企画なさった講演会で、明智憲三郎さんの話を聴いたことがあつた。 その話は、ほとんど記憶にないが、2011年には『三田評論』にお書きになったものを読んで、こんなことを書いていた。 なお、フィギュア・スケートの選手云々というのは、織田信成さんが、酒気帯び運転で逮捕されたというような事件を指す。

   光秀の子孫、「本能寺の変」の真相を捜査<小人閑居日記 2011. 8. 14.>

 「歴史捜査家」を名乗る明智憲三郎さんが、『三田評論』8・9月号に書かれた一文が、まことに興味深い。 昭和47(1972)年の工学部修士課程のご卒業だが、明智光秀の子孫に当たるという。 「歴史探偵」を名乗らなかったのは、明智小五郎を思わせるからだろうか。 フィギュア・スケートの選手が乗ったバイクには、気を付けたほうがいいかもしれない。 長年、先祖明智光秀の起こした「本能寺の変」の真相を知りたいと思ってきたが、七年前に工学的な手法も用いて捜査を開始した。 当時の史料をくまなく調べて、データ(証拠)を徹底して集め、全てのデータが矛盾なくつながるストーリーを、こう復元した。

 「光秀謀反の動機は織田信長が天下統一後に実行する計画だった「唐入り(明国侵略)」を阻止することだった。信長は本能寺に徳川家康をおびき寄せて光秀に討ち取らせて一挙に徳川家を滅ぼす計画を立てた。光秀はこの計画を逆手にとって信長を討った。光秀と同盟していた家康は甲斐の武田攻めに手間取り、光秀への援軍が遅れた。このため、事前に謀反を知って準備していた秀吉の「中国大返し」によって光秀は討たれてしまった。」

 明智憲三郎さんは、世の中に流布している通説の元をたどって、それがみな本能寺の変直後に羽柴秀吉が書かせた『惟任退治記』にあることをつかむ。 秀吉が都合よく作った話が、400年間、軍記物に始まり歴史小説やドラマで、拡大再生産を繰り返され続けてきたという。 通説の壁は厚く高く、とても越え難いが、壁への挑戦が自分の使命だと思い定めている。 二年前には『本能寺の変 四二七年目の真実』(プレジデント社)を出版し、ブログ「明智憲三郎的世界 天下布文!」で捜査情報を公開しているそうだ。