覚慶(義秋)、朝倉義景に庇護され元服、義昭となる2020/09/09 07:40

 永禄8(1565)年8月5日付け、上杉輝虎(謙信)宛ての大覚寺義俊の副状によれば、足利義輝横死の際に、朝倉義景は、覚慶の一乗院脱出に関わっていた。 さらに、同書状で、義俊は、義景が松永久秀に直談判して調略したため、覚慶が脱出できたと述べている。 松永久秀が、覚慶の脱出を了解していたというのは奇異な感じがするが、三好長慶が、細川藤孝に、覚慶を京都あたりで殺害する目的で救出を頼んだという説もある。 藤孝は、長慶の頼みに従った風をみせて、覚慶の救出を実行したという。

 朝倉義景家臣の前波吉継(後の桂田長俊)が、和田惟政に宛てた永禄8年8月14日付け書状(「和田家文書」)によれば、その時点で、朝倉氏はすでに、覚慶を一乗谷へ迎えようとしていたことが知られる。 義景は、実際には覚慶(義昭)の救出をたくらみながら、真意を秘して、長慶・久秀には、覚慶を一時的に逃れさせ、後で殺害する、と、提案したのではないかとも考えられる。 当時、覚慶(義昭)をめぐる謀略には、底知れぬものがあったようだ。

 しかし、義昭の実際の一乗谷入りは、それから二年余後の永禄10年であった。 足利義秋(義昭)は永禄9(1566)年9月晦日に、敦賀金ヶ崎城に入り、同城で越年、加賀の一向一揆が起きたため、同城にしばらく滞在を余儀なくされた。 騒動も鎮まった永禄10(1567)10月21日、一乗谷安養寺に入り、義景は23日安養寺へ出向き義秋に参礼したが、その有様は、京都全盛時の管領出仕の儀式にも劣らなかった。 12月25日、義秋が、義景館に密々の「御成」をしたとき、義景の応対はねんごろなものであった。 永禄11(1568)年4月21日、義景館で義秋は元服し義昭と名乗るが、その際、義景は、京都から関白二条晴良の列席を仰いでもてなし、多大の出費をもって取り計らい、さらに、5月17日には、義昭を館に招いて、将軍を遇する格式で饗応したという。

 永禄10(1567)年10月といえば、信長が稲葉山城を占拠した2か月後のことである。 義景は、義昭を庇護する決心をつけかねて、すぐに一乗谷にむかえず、金ヶ崎城に留めていたところ、信長が稲葉山城を占拠したことにより信長の上洛が実現に一歩近づいたと見て、急遽、義昭をむかえることに踏み切ったのではなかろうか、という。

 この時点の信長は、永禄8(1565)年12月から覚慶(義昭)支援を表明していたものの、美濃攻略に時間を費やして動けなかった。 永禄10(1567)年8月、ようやく稲葉山城を占拠したが、義昭は若狭、越前と流浪し、信長の手の届かぬところへ行ってしまっていた。 信長は、着々と上洛の準備を進めていたけれど、戦国期の「錦の御旗」(義昭)を失い、焦っていた。

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