「決勝綸旨(りんじ)」について2020/09/11 07:05

 立花京子さんの『信長と十字架』に、「天下布武」とともに「決勝綸旨(りんじ)」というキーワードが出て来る。 信長がいつから全国制覇をめざしたか、という問題を解くためには、正親町天皇から上洛を促された「決勝綸旨」について検討しなくてはならない、というのだ。 「決勝綸旨」とは、今谷明氏が提唱した用語だそうで、軍事力を行使して朝敵を追討する天皇の命令だ。 永禄10(1567)年11月9日付けで、弁官勧修寺晴豊が奉ずる綸旨として、信長のもとに発給された。 美濃攻略した信長を「古今無双の名将」と異常なまでに称賛し、「いよいよ勝に乗ぜられることは勿論」、特に禁裏御料所の年貢・公事を、信長が百姓からしっかり徴収し上納することと、若宮(後の誠仁親王)の元服と禁裏修理を命じている。 「いよいよ勝に乗ぜられ」との言葉は、それ以後の信長の戦いを奨励するものであり、信長自身も、これをはっきりと、上洛命令と理解していたことが後に判明する。 こうして、信長は、上洛という軍事行動を起こす正当性を得たのであった。

 このとき、勅使として、決勝綸旨を信長のところへ持参したのは、禁裏御倉職(おくらしき)の立入(たてり)宗継だった。 御倉職とは、禁裏の諸事費用を預かり、衣服、調度品を管理する、いわば下級公家で、上下の二家があり、天文期以降、立入家が上の御倉職だった。 晴豊花押まである綸旨案は、「立入宗継文書・川端道喜文書」に所収されていて、綸旨は目録だけだった可能性があるが、綸旨案と同じ口上が宗継によって述べられたのであろう。 目録に加え女房奉書も「立入宗継文書」にある。

 「御倉職」もそうだが、知らない言葉がいくつも出て来て、辞書を引く。

 「弁官」は、律令制の官名で太政官に直属し、左右に分かれ、左弁官は中務・式部・治部・民部の4省を、右弁官は兵部・刑部・大蔵・宮内の4省を管掌し、その文書を受理し、命令を下達するなど、行政執行の中軸をなした。

 「女房奉書」は、勾当内侍(こうとうのないし)など天皇側近の女官が、勅命を受けて女消息体(散らし書)で書いて出した文書。天皇自身が同様の書体で作成することもある。鎌倉時代に始まり、室町時代以後多く用いられた。 「勾当内侍」は、掌侍(ないしのじょう)4人の首位のもの。天皇への取次、勅旨の伝達につかさどる。長橋の局。長橋殿。 「掌侍」(ショウジとも)は、内侍司(ないしのつかさ)の判官。もと従七位相当、後に従五位相当。内侍。 「内侍司」は、後宮十二司の一つ。天皇に常侍し、奏請・伝宣・陪膳、女嬬(にょじゅ)の監督、内外の命婦(みょうぶ)の朝参、後宮の諸礼式をつかさどった。尚侍・典侍・掌侍・女嬬などの職員を置く。 「女嬬」(ニョウジュとも)は、内侍司に属し、掃除・点灯などをつかさどった女官。めのわらら。

 この本の、参考史料に時々、「お湯殿の上の日記」というのが出て来る。 「お湯殿の上の日記」(おゆどののうえのにっき)は、清涼殿のお湯殿の上の間に奉仕する代々の女官がつけた仮名書きの日記。文明9(1477)年から貞享4(1687)年のものが伝存。宮中儀式や女房詞(ことば)などを知るうえで貴重な史料。

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