秀吉の中国大返し、朝日新聞「みちのものがたり」の疑問2020/09/13 06:26

8月30日のこの日記に「渡邊大門著『清須会議』を読む」を書いて、「天正10(1582)年6月2日未明、明智光秀は「本能寺の変」で織田信長と、その長男信忠を討った。 毛利攻めで備中高松城を攻囲していた羽柴秀吉は、その報に接し、それを秘して毛利と和睦、4日朝(6日説もある)出発した「中国大返し」で、13日昼頃決戦の地・山崎に到着した。 「中国大返し」は、尋常でない移動スピードが強調されるが、備中高松城から山崎まで約170キロだから、現在ではそれほどもなかったという否定的見解が強いそうだ。」と書いた。

昨日の朝日新聞朝刊be「みちのものがたり」は、この「秀吉の中国大返し」(岡山県~京都府)(文・斎藤勝寿記者)で、「軍勢率いて200キロ 光秀討つ」の見出し、「中国大返しは「戦国の奇跡」と称されてきた。/羽柴秀吉率いる2万~3万の軍勢が悪天候と悪路の中、姫路城までの約100キロを2日で走破したからだ。」と書いている。

その後、「本能寺の変 情報どう入手」の見出しに関して、「『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』など戦国時代に関する著書を多数もつ歴史学者で作家の渡辺(邊)大門さん(52)は、秀吉が上方の重要情報をただちに入手するため、使者を用意していた可能性を指摘する」と、インタビューした渡辺さんの見解を紹介している。

使者云々はさておき、確実に記者は『清須会議』(朝日新書)を読んだであろう。 そこに書かれていた「備中高松城から山崎まで、約170キロメートルである。「中国大返し」は、尋常でない移動スピードが強調されるが、現在ではそれほどもなかったという否定的見解が強い。」を、どう判断したのか。 「みちのものがたり」の取材が進む中で、否定的な学説が大勢であることを紹介したら、ストーリー全体が空しいものになってしまうからだったのだろうか。 謎である。

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