「城下町川越」を「天領」と口走る2020/10/08 06:50

 東上線川越駅からは、路線バスで「札ノ辻」まで直行。 東京のGo To何とかも解禁された最初の日曜日とあって、けっこうな人出、バス直行は正解だった。 菓子屋横丁をグルッと回り、元町会館で集まる。 ここで、「川越」は元々?と聞かれて、私は「小江戸」が頭によぎって、「天領」だったんではと、とんでもないことを口走った。 「博覧強記」、形無しである。 第526回例会のテーマは、「城下町川越」だった。

 そういえば、前に来た時、二度も川越城の本丸御殿に行っていた。 事典を見たら、江戸に近い支城として重視され、幕閣重臣が配置された。 城主は1590(天正18)年入封の酒井重忠以後、酒井忠利・忠勝、堀田正盛、松平(大河内)信綱以下3代、柳沢吉保、秋元喬知以下4代、松平(越前家)朝矩以下7代、松平(松井)康英以下2代の、8家21代を数える。 うち松平朝矩以下7代が越前家分家の家門である以外は譜代大名。 領分高は最大17万石。 1638(寛永15)年大火の翌年入封の松平信綱時代、川越城再建拡張、城下町復興と町制整備、新河岸川舟運の開設、荒川治水、慶安総検地、武蔵野開発と野火止開鑿が行われて藩政が確立した。 そういわれてみれば、平林寺に松平(大河内)家の墓のあることをご家老の末裔である高崎の堤克政さんに聞いていたし、柳沢吉保も徳川綱吉の側用人として出世、川越藩主で老中格になったのだった。

 大沢家住宅に寄り、蔵造りの街並みを歩いた。 時の鐘、埼玉りそな銀行川越支店、亀屋本店(志木会で活躍した山崎嘉正さんの奥様と息子さんが歓迎してくれた)を経て、大正浪漫夢通りを川越大師喜多院へ行く。 以前、山崎嘉正さんアレンジの「志木歩こう会」で来た時、食事をした鰻の「小川菊(おがぎく)」には行列が出来ていた。

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