どろぼう橋、福沢桃介、「白河以北」2020/10/10 06:53

喜多院の庭の秋

 川越大師喜多院の仙波東照宮方面への裏口から、けっこう深い空堀を渡る。 その「どろぼう橋」というのは、その昔、江戸幕府の御朱印地である喜多院境内には、町奉行といえども立ち入れないことを知って、泥棒がこの橋を渡って逃げ込んだことに由来するという。 東照宮中院通りをずっと歩いて、産業観光館「小江戸蔵里」へ行き、昼食となった。 ここはコロナの影響で9月30日まで閉めていたそうで、今回当番のMさんたちは、さぞ、やきもきされたことだろう。

 3月の入会以来、初めて挨拶が出来ることになったので、会長の「福沢研究でも一緒」という紹介を受けて、短く川越出身の福沢桃介(ももすけ)の話をした。 桃介は、慶應4(1868)年生まれ(夏目漱石と同じ)、川越の提灯屋、岩崎紀一の二男、川越中学から明治15年慶應義塾に入り、まかない征伐や、運動会で活躍するなど目立つ塾生で、福沢の二女・房(ふさ)に見初められ婚約、福沢諭吉との養子縁組をし、アメリカに留学させてもらった後、結婚する。 木曽川水系の電源開発を外債の資金調達で行うなど実業家として成功し、その事業は松永安左エ門に引き継がれた。 だが川上貞奴と暮らしたので、福沢家や慶應では評判が悪いのだけれど、旧図書館や大講堂に多額の寄付などしている。

 食事中、私の後に入会した医学部出身のSさんが、当番のMさんと同じ白河高校卒だと聞いて、福島の入口ですよね、と言ったのまではよかったが、「原敬(たかし)も白河でしたっけ」と口走った。 即座に、原敬は岩手と、周りから否定された。 子供の頃、原敬の伝記を読み、その後、後藤新平を書いた小説を読んだ。 「白河以北一山百文」と東北がさげすまれたことから、発憤した原敬が「一山」と号したり、「河北新報」という新聞が出来たことが、頭にあったのだった。 「博覧強記」の怪しいこと、ここでも尻尾を出した。

 「三田あるこう会」「城下町川越」、歩数計は11441歩だった。

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