知らなかった孔子の生涯や『論語』の成立2020/10/14 07:06

 と、いうわけで、井波律子著『奇人と異才の中国史』(岩波新書)を読む。 福沢先生が自らは漢学をかなり学びながら、後年、儒学をボロクソに言ったためではないだろうが、慶應義塾志木高校では、漢文がなかった。 「孔子」についても、落語の「厩火事」の人物像しか知らないのである。 「孔子」とは、いったい、どんな人だったのか。 井波さんは、新書3ページ弱にまとめている。 I 古代帝国の盛衰 1 すべての始まり―春秋・戦国・秦・漢 の最初の人物である。

 孔子(こうし)―「仁」と「礼」の政治を求めて(思想家 春秋 前551-前479)。 「儒家思想・儒教の祖、孔子あざな仲尼(ちゅうじ。本名は孔丘(こうきゅう))は諸国が分立した春秋時代(前770-前403)の乱世に、魯(ろ)の国で生まれた。」 低い階層の出身で、父母は正式に結婚した夫婦ではなかったとされる。 幼くして両親を失い、貧窮のうちで成長した孔子は苦労して学問を修めた結果、三十代で優秀な学者と認められ、しだいに弟子もふえた。

 優秀な学者であると同時に、現実の社会や政治に関与することを望んでいたが、紀元前499年、魯の君主定公(ていこう)が学者として名高い孔子を抜擢し、大司寇(だいしこう・法務大臣)に任命した。 当時の魯でも下克上の嵐が吹き荒れ、三公族(君主の一族)がやりたい放題で、定公は孔子にこれを抑える役割を期待した。 孔子も周公旦(周王朝創設の功労者)の理想政治を再現しようと、懸命に努力したが、三公族を打倒できず、あえなく失脚し、紀元前497年、魯を去るに至る。 このとき、孔子はすでに55歳であった。

 以来、孔子は14年にわたり、「仁(思いやり)」と「礼(道徳慣習)」を基礎とする自分の政治理念を理解してくれる君主を求めて、諸国を遊説した。 しかし、ついに彼の主張に耳を傾けてくれる君主にめぐりあうことができなかった。 旅の途中で三度も生命の危機にさらされるなど不運つづきだったが、彼を敬愛する大勢の弟子が随行していたのが救いだった。 孔子は青白い知識人ではなく、身長九尺六寸(216センチ)の堂々たる偉丈夫、「長人」と呼ばれた。 心身ともに強靭でなければ、これほど長期の放浪生活を敢然と続けられなかったであろう。

 紀元前484年、68歳のときに、得ることの少なかった諸国遊説の旅をきりあげ、魯に帰った。 以後、73歳で死去するまで、弟子たちの教育に力をそそぐ一方、後世、「五経」と総称される儒家思想の五種の聖典、『書経』『礼経』『詩経』『易経』『春秋』の整理・編纂に専念する日々を送る。

 「付言すれば『論語』は弟子たちが著した孔子の言行録である。ここには、孔子と優等生の顔回や暴れん坊の子路をはじめ、ユニークな弟子たちとの対話が臨場感ゆたかに再現されている。挫折や失敗に屈することなく、ときにユーモアをまじえつつ、自分の思想を伝えようとする孔子。常に師に問いかけながら、その教えの真髄を吸収しようとする弟子。『論語』はこうした師と弟子の自由な対話のなかから、原始儒家思想が形づくられてゆくさまをいきいきと描いた稀有の記録である。」

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