『左伝』十一たびの福沢、「左伝癖」の杜預(どよ)2020/10/15 07:05

 『福翁自伝』に、福沢諭吉は『左伝』が得意で、十五巻のうち、たいがいの書生は三、四巻でしまうのを、全部通読、およそ十一たび読み返して、おもしろいところは暗記していた、とある。 富田正文先生の校注に、「左伝は、春秋左氏伝のこと。春秋という史書につき左丘明が解釈を加えた書。」とある。

 井波律子著『奇人と異才の中国史』に、杜預(どよ)―透徹した批評精神(歴史家・軍事家 西晋 222-284)がある。 「西晋の杜預あざな元凱(げんがい)は大軍事家であり、また大歴史学者でもあった。「とよ」ではなく、「どよ」と読むのが慣例である。」 杜預の祖父杜幾(とき)は、曹操政権の重臣として活躍する一方、学問を重視する人物だった。 父の杜恕(とじょ)も官界に入ったが、筋金入りの硬骨漢であり、魏の嘉平元年(249)、クーデタを起こして実権を掌握した司馬懿(しばい)に嫌われ、流刑の憂き目にあった。 杜恕は流刑地でめげることなく著述にはげみ、その学問重視の家風のなか育った杜預(28歳)も、倦まずたゆまず膨大な書物を読み続けた。

 杜預の人生が上げ潮に乗ったのは、魏末、父司馬懿の死後、実権を掌握した司馬師・司馬昭の妹と結婚したのが契機だった。 曹氏の魏から司馬氏の西晋への王朝交替期においても、内外の要職を歴任した。 西晋の咸寧4年(278)には荊州方面軍総司令官として、魏・蜀・呉の三国のうち唯一存続していた呉と対決、咸寧6年(280)総攻撃をかけ滅亡に追い込む。 杜預こそ西晋の全土統一の最大の功労者だった。

 中年以降、はなばなしくも慌しい公的人生を送りながら、自他ともに認める「左伝癖(『春秋左氏伝』に対する熱狂的愛好癖)」の持ち主だった杜預は、寸暇を惜しんで『春秋左氏伝』(以下、『左伝』と略称)の研究に没頭した。 『左伝』は、左氏が、孔子によって整理・編纂された魯の年代記『春秋』に注解を加えた解説書。 杜預の著した『春秋経伝集解(けいでんしっかい)』は、『春秋』の「経(けい・本文)」と、これに対する『左伝』の「伝(解説)」を実証的な方法で厳密に対応させつつ、体系的に解釈した作品であり、中国歴史学が確立するための大きな布石だった。

 福沢諭吉は、杜預の『春秋経伝集解』を読んだのだろうか。