志ん生の「大津絵」と小泉信三さん2020/10/25 07:47

 「大津絵」というと、このエピソードが思い浮かぶ。 大津絵節という俗曲は、江戸時代後期から明治にかけて全国的に大流行した三味線伴奏の短い歌謡で、宴席の座興や寄席で歌われた。 大津絵節の名は、近江国大津の追分・大谷あたりで売られた庶民の絵「追分絵」が、東海道を往来する旅人の土産物として喜ばれて、全国に「大津絵」の名で知られるようになり、その画材をよみこんで、元禄の終わり頃(1700年)から大津の遊里柴屋町の遊女たちが唄い始めたことによる呼び名と考えられるのだそうだ。

 小泉信三さんは、古今亭志ん生がたいへんな贔屓で、志ん生が病気で倒れる何年か前までは、毎年、暮の数え日という頃に、志ん生を座敷に呼んだという。 ある時、柳橋の料亭で、志ん生が「大津絵」の「冬の夜に」をうたうのを聴いて、小泉さんは突然ハンケチを眼にあてて泣いた。 それからは、三田の家でも、広尾に移ってからも、志ん生を呼んで、一席やってもらった後、これをうたうと、家族がいるなかで、小泉さんは泣いた。 「声にあわれがあっていい」といい、うたが始まる前からハンカチを用意していた。(今村武雄著『小泉信三伝』)

 安藤鶴夫さんは、志ん生から、毎年、師走がちかづくと、ことしも、小泉先生にきかせんだな、と思って、それがなんだかまちどおしかった、と聞いている。

 冬の夜に風が吹く
 しらせの半鐘がジャンと鳴りゃ
 これさ女房わらじ出せ
 刺子襦袢に火事頭巾
 四十八組おいおいに
 お掛り衆の下知をうけ
 出て行きゃ女房はそのあとで
 うがい手水にその身を清め
 今宵うちのひとになぁ
 今宵
 うちのひとに怪我のないように
 南無妙法蓮華経 清正公菩薩
 ありゃりゃんりゅうとの掛け声で勇みゆき
 ほんにおまえはままならぬ
 もしもこの子が男の子なら
 おまえの商売させやせぬぞえ
 罪じゃもの

 安藤鶴夫さんが、このあいだ、人形町の末広の前を通りかかったら、日曜の昼席に、志ん生の独演会があって、番外として、小泉信三先生をしのんで、冬の夜の大津絵うたいます、と書いてあった。 こんどは、志ん生がうたいながら、泣く番になった。 と、昭和41(1966)年8・9月号の『三田評論』追悼・小泉信三号「小泉先生と落語」に、書いている。

コメント

_ 藤原雄二 ― 2020/10/26 13:48

繰り返し読む毎にこちらも目頭があつくなります。落語家では志ん生が
なんと言っても一番と思います。昭和28年ころ父親と新宿末広亭夜席
で聴いたあと寿司を食べて帰ったことを思い出しました。

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