「壬午事変」が起こり、海軍は軍拡へ2020/11/01 07:17

 坂野潤治さんは、正しかったのは山県有朋の中国認識のほうだった、という。 1882(明治15)年7月、朝鮮で反日派のクーデターが起こり、国民の大半はこれを支持、国王の生父大院君が政府内から親日派を一掃し、それに呼応した民衆が日本公使館を包囲し投石する者もあらわれた。 朝鮮政府の義務である警備を受けられぬ公使館員28名はパニック状態に陥り、自ら公使館に火を放ち、仁川港に到り、イギリスの測量船に乗せてもらって日本に帰国する。 この間、数名の公使館員と朝鮮兵の調練にあたっていた4人の日本将兵が殺された。 これが「壬午事変」のあらましだ。

 日本政府には、この時点で、事件の背後にあった中国政府と一戦するつもりはなかった。 中国政府も反日クーデターを起こした大院君を中国に連れ去り、事態を事件前の状態に戻す。 この結果、中国の介入で日本と朝鮮の間に、済物浦(さいもっぽ)条約が結ばれ、公使館襲撃犯人の処罰、日本兵の公使館内駐留、被害者への賠償などを朝鮮政府が認めた。

 しかし、一件落着とはならなかった。 第一に、中国の朝鮮政府に対する影響力が増大した。 第二に、日本公使館や国内の軍部や言論界は、中国に対する反感を強めていった。 事変後に海軍は軍拡を求め、3年間で24隻の軍艦の購入を政府に求めた。 言論界で軍拡を支持鞭撻したのは、ほかならぬ福沢諭吉で、1年2ヵ月前の『時事小言』の主張をあっさり放棄して、1882(明治15)年11月に『兵論』を刊行、国民レベルでの文明化に遅れようと、専制政治であろうと、強い国は強く、現に今の中国は「強国」である、と主張した。 福沢は山県有朋から(昨日触れた)「隣邦兵備略」を借り、『兵論』を書き、4頁近く引用している。

甲申事変と、伊藤博文による戦争回避2020/11/02 07:06

 日本と中国が朝鮮の支配をめぐって相対峙し、朝鮮国内で親日派と親中派が対立しているという状況の下で、中国が安南(今のベトナム)の支配権をめぐってフランスと戦端を開く。 壬午事変以後朝鮮国内で劣勢を強いられてきた日本公使館と朴泳孝や金玉均らの親日派は、1884(明治17)年12月、これを好機としてクーデターを断行した。 甲申事変である。 朴泳孝らが王宮を占拠して、日本公使館に国王護衛のための派兵を要請し、日本の公使館守備隊が国王のいた離宮を単独で「護衛」する。 朴泳孝や金玉均は、日本兵に「守られた」国王に任命されて、新内閣を組織したのだ。

 しかし、「強国」化していた中国が、一旦は排除された朝鮮の親中派とともに、簡単にこのクーデターを鎮圧した。 中国公使袁世凱が、日本守備隊の4倍に当たる約600名の兵を率いて王宮に攻め入り、国王を日本兵の手から奪回した。 敗れた日本側は竹添進一郎公使以下、守備兵約150名、公使館職員とその家族約320名が一団となって公使館を脱出し、仁川の日本領事館に避難した。 これが甲申事変の概要だ。 朝鮮の国内において親日改革派が一掃され、日中間の力関係では中国が日本を圧倒したこの事件は、これまでの日中朝三国の関係を一変した。 1880(明治13)年末に参謀本部長の山県有朋が警鐘を鳴らしたことが、現実のものになったのだ。

 日本国内では、言論界や政府内の一部が、このような事態を屈辱的なものとして、中国と一戦することを主張した。 なかでも福沢諭吉の『時事新報』は、その最たるものだった。 事変直後の社説(1884(明治17)年12月27日)は、「戦争となれば必勝の算あり」、2年前の『兵論』では山県有朋の助けを借りて中国の陸海軍の実力を正確に理解していた福沢が、一旦朝鮮支配をめぐって日本が中国に圧倒されると冷静さを失い、「今回の朝鮮の事変が破裂して、日本と支那の戦争となることあれば、必ず日本が勝利すると断言できる。」と好戦的になった。

 政府内部にも、海軍を中心とする旧薩摩藩系勢力の強硬論があった。 完全な「薩長藩閥政府」、両派の参議は「大臣」ではないので権限は平等、数も同じだった。 しかし、伊藤博文をはじめとする長州派参議にとっては、対中開戦など論外だった。 第一に、正当性がない。 朝鮮新政府の側から見れば、日本公使館とその守備隊もクーデターの一味だった。 日本にも中国にも越権行為があり、五分五分の関係だった。 事態の解決は、日中双方の痛み分け以外にはなかった。 詳しい事情を知らないで激昂する言論界の非難を一身に受ける覚悟と、また政府内で勢力の拮抗する薩摩派の参議や軍人を説得する能力を持った政治家の登場が必要だった。 10年前(1874年)の大久保利通の役割を担ったのが長州派の参議伊藤博文だ。 彼は日中交渉の全権として、1885(明治18)年2月に横浜を発ち、4月4日から天津で中国全権の李鴻章との交渉に入り、大幅に譲歩して4月18日「天津条約」を結んだ。 日中両軍の朝鮮からの撤兵、両国による朝鮮軍の教練のための将校派遣の中止、今度出兵する時は相手国に「宣戦布告」する三条からなるもの。 それまでの間、両国は表面では平和を維持しながら、裏面では軍備の拡張に努めることにならざるを得ない、全面戦争を予感させるものだった。

日清戦争に備えた陸海軍の軍拡2020/11/03 07:02

 坂野潤治さんの『帝国と立憲』で、福沢諭吉関連のところを読んできた。 全部を同じように読むわけにはいかないので、それを補いつつ、大事だと思うところを書いておく。

 坂野潤治さんは、福沢が1年2ヵ月前の『時事小言』の主張をあっさり放棄して、1882(明治15)年11月に『兵論』を刊行したことについて、こう書いている。 「哲学者よりは新聞記者のほうが変わり身の早いことは、今日のわれわれもよく知るところです。しかし、福沢は、平然と一年少し前の自分の主張を批判の対象とする、研究者泣かせの言論人でした。」

 「明治14(1881)年の政変」で9年後に国会を開くという約束を詔勅でした以上、「天皇制立憲主義」に移らなければならない。 政府の主流だった保守派は、政府権限が強く議会権限の弱い憲法を、議会の開設の前に天皇の名で制定しようと考えた。 天皇が定めて国民に公布する憲法を「欽定憲法」と言う。 このような保守的な憲法案でも、1890(明治23)年に開設される議会には予算審議権が与えられることになっていて、1890年以後は、議会の同意なしに陸海軍の軍拡は行えないことになる。

 一方、急進派のグループ(自由党系)は、憲法そのものではなく衆議院を握ることをめざし、農村地主を中心とする地方の有力者たちの支持を固めていた。 彼らは1885(明治18)年の天津条約締結前後には、「政費節減・民力休養」(行政費を減らして減税(地租軽減)を行え)をその基本政策として確立した。 議会が開設されると、このグループが多数を占めるであろうことは、予見できた。

 政府側としては、議会開設前に、より正確には1891(明治24)年度予算案の審議前に、陸海軍事費の増額、軍拡をする必要があり、4年間で48隻の軍艦を欧米から購入する計画に着手した。 国会が開設した時には、対中戦争に備えた海軍軍拡は、基本的には完了していた。

 しかし、国会開設以後の数年間は、衆議院の多数を占める自由党や改進党の「政費節減・民力休養」要求のため、新規の予算増額は困難で、対中戦争に備えての陸海軍軍拡は停滞する。 そのままでは、また中国に抜かれるかもしれない。

 天皇の名で制定された憲法の機能不全は、天皇の名で解決する以外はなく、1892(明治26)年2月10日「和協の詔勅」が出る。 まず重要なのは、対外関係の重要性の強調で、「世界列国の進勢は日一日急となっている。そのような時に当たって日本国内で紛争が続き、遂に国家の大計を忘れ、国運進張の機を誤るようなことがあっては」ならない。 「世界列国の進勢」は、具体的には「中国の進勢」と理解しなければならない、坂野潤治さんは「誇大な表現の真の意図を理解することは、今日でも大切なことです」と。 第二に重要なのは、宮廷費を6年間毎年30万円政府に下付し、「文武の官僚」は6年間俸給の1割を返上させて製艦費に充てるので、議会も政府提案の軍艦製造費を承認してほしい、という詔勅だった。

「内に立憲」と「外に帝国」のせめぎあい2020/11/04 07:21

 日清戦争後の「帝国」と「立憲」のせめぎあいに、進む。 「大正デモクラシー」研究の第一人者、松尾尊兊(たかよし)氏の終生のテーマは、「内に立憲主義」による「外に帝国主義」の克服、帝国主義に反対した民主主義者を歴史の中に見出し、その努力を今日の日本人に伝えることが、その「大正デモクラシー」研究の目的だった。 明治末年から大正の初年にかけての日本の言論界で「内に立憲、外に帝国」という標語が使われたのは、韓国併合や満蒙権益(日露戦争後に得た、満州・内蒙古地方における日本の特殊権益)の拡大と国内の民主化との同時進行を肯定するためのものだった。 松尾尊兊氏は、朝鮮の植民地化や中国領土満州の半植民地化に反対した民主主義者を求めて、民本主義者吉野作造にそれを見出した。

 松尾氏は「大正デモクラシー」(「内に立憲」)により「外に帝国」に抵抗し、朝鮮や中国への侵略を批判した吉野作造の偉大さを指摘した。 逆に言えば、「大正デモクラシー」という国内の民主化運動全体は、「外に帝国」を容認していたことになる。 普通選挙を求める院外(議会の外)の民衆運動を院内で支持していた野党憲政会は、その与党時代に中国に押し付けた二十一カ条要求(1915年)を9年後の1924(大正13)年に政権に返り咲くまで、世界の国際協調の潮流を無視して擁護しつづけた。

 1912(大正元)年から13年にかけての第一次憲政擁護運動によって、それ以前の藩閥官僚(および軍部・貴族院)と政友会の二大保守勢力間の協調体制による政権たらい回し(いわゆる桂園(けいえん)体制)が壊れて以降、政友会と憲政会による「平和と民主主義の分有体制」はそれなりに、相互補完的に政治の質を向上させてきた。 1924(大正13)年、憲政会が「外に帝国」を放棄し、英米との協調と中国への内政不干渉に対外政策を転換した、いわゆる「幣原外交」の登場だ。 その憲政会総裁の加藤高明を首班とする護憲三派内閣が、1925(大正14)年に男子普通選挙法を実現、「内に立憲」の方も大きく前進した。 同年8月に政友会と革新倶楽部が内閣から離脱したため、憲政会が単独内閣を組織した。

 反対党の政友会は、同年4月に陸軍大将田中義一を総裁に迎えて以後、「外に帝国、内に天皇中心主義」の完全な保守党に変化した。 憲政会路線は軍部からの攻撃にもさらされ、原敬・高橋是清内閣時代の1921-22年にはワシントン軍縮を許容した海軍は、30(昭和5)年のロンドン軍縮には強い抵抗を示した。 「帝国と立憲」を軸に日本近代史を通観しようするのに重要なのは、陸軍の満蒙権益拡大の要求だ。 1895(明治28)年の日清戦争の勝利によって日本の「帝国」化の目標が朝鮮から満蒙に拡大したのは事実だが、それはあくまでも南満州と東部内蒙古の「特殊権益」の“維持”に限られていた。 それが1927(昭和2)年に保守政党の内閣が組織されたのを機に、陸軍の要求は「満蒙の“領有”」に転換する。 「外に帝国」の目標が一段と拡大したのだ。

議会や世論は反戦・反ファッショの主張を放棄していなかった2020/11/05 07:08

 坂野潤治さんは、満州事変の教訓をこう述べる。 都市民衆や議会勢力が民主化を求めて活動している時には、中国への勢力拡大は停止する。 また、これらの「立憲勢力」は、戦争が勃発する前日までは、反戦的もしくは厭戦的だ。 しかし、戦争一般ではなく、中国への軍事的進出を抑えるには、世論や議会ではなく、国防・対外大権を握れる「内閣」を取っていなければならない。 それでも「帝国」化が防ぎ切れない時もあるが、内閣を取っていなければ侵略戦争を事前に抑える手段はない。

 そうだとすれば、1932(昭和7)年の5・15事件のテロで犬養毅の政友会内閣が辞職して以後、1945年8月の敗戦までの13年間、政党内閣は一度もできなかったのだから、「立憲」が「帝国」を抑えた「画期」など存在するはずがなかったことになる。 しかし、これはあくまでも結果から見た話で、当時の人々が満州事変で「帝国」批判を諦め、5・15事件で政党内閣に見切りをつけてしまったわけではない。 さらに言えば、4年近く後1936(昭和11)年の規模の大きなクーデター2・26事件の後でも、議会や世論は反戦・反ファッショの主張を放棄したわけではなかった。

 1936年2月20日の第19回総選挙で政友会を破って第一党に返り咲いた民政党は、その6日後の青年将校の反乱の後も、反戦・反軍国主義の旗を降ろさなかった。 同年5月の斎藤隆夫の「粛軍演説」は有名だ。 民政党と政友会の反戦・反ファッショの声に押されて、両党内部と陸軍の一部に支持者を持つ宇垣一成内閣が構想されるが、組閣の大命をもらった宇垣に対し、陸軍が後任陸相を推薦せず流産した。 坂野潤治さんは、いくつかの著書で、それでも1937(昭和12)年7月7日の日中戦争勃発までは、民主化をめざす各勢力の活動はむしろ拡大していたことを強調してきたという。 同年4月30日の第20回総選挙での社会大衆党の議席倍増や、5月から6月にかけての市会議員選挙での同党の躍進に注目したのだ。 合法社会主義政党である社会大衆党は、軍部と提携して国家改造をめざす「広義国防」を唱えていた。 労働者や貧農を救済する、今日の言葉でいえば、格差是正と軍備の充実を結びつけようという立場だった。