甲申事変と、伊藤博文による戦争回避2020/11/02 07:06

 日本と中国が朝鮮の支配をめぐって相対峙し、朝鮮国内で親日派と親中派が対立しているという状況の下で、中国が安南(今のベトナム)の支配権をめぐってフランスと戦端を開く。 壬午事変以後朝鮮国内で劣勢を強いられてきた日本公使館と朴泳孝や金玉均らの親日派は、1884(明治17)年12月、これを好機としてクーデターを断行した。 甲申事変である。 朴泳孝らが王宮を占拠して、日本公使館に国王護衛のための派兵を要請し、日本の公使館守備隊が国王のいた離宮を単独で「護衛」する。 朴泳孝や金玉均は、日本兵に「守られた」国王に任命されて、新内閣を組織したのだ。

 しかし、「強国」化していた中国が、一旦は排除された朝鮮の親中派とともに、簡単にこのクーデターを鎮圧した。 中国公使袁世凱が、日本守備隊の4倍に当たる約600名の兵を率いて王宮に攻め入り、国王を日本兵の手から奪回した。 敗れた日本側は竹添進一郎公使以下、守備兵約150名、公使館職員とその家族約320名が一団となって公使館を脱出し、仁川の日本領事館に避難した。 これが甲申事変の概要だ。 朝鮮の国内において親日改革派が一掃され、日中間の力関係では中国が日本を圧倒したこの事件は、これまでの日中朝三国の関係を一変した。 1880(明治13)年末に参謀本部長の山県有朋が警鐘を鳴らしたことが、現実のものになったのだ。

 日本国内では、言論界や政府内の一部が、このような事態を屈辱的なものとして、中国と一戦することを主張した。 なかでも福沢諭吉の『時事新報』は、その最たるものだった。 事変直後の社説(1884(明治17)年12月27日)は、「戦争となれば必勝の算あり」、2年前の『兵論』では山県有朋の助けを借りて中国の陸海軍の実力を正確に理解していた福沢が、一旦朝鮮支配をめぐって日本が中国に圧倒されると冷静さを失い、「今回の朝鮮の事変が破裂して、日本と支那の戦争となることあれば、必ず日本が勝利すると断言できる。」と好戦的になった。

 政府内部にも、海軍を中心とする旧薩摩藩系勢力の強硬論があった。 完全な「薩長藩閥政府」、両派の参議は「大臣」ではないので権限は平等、数も同じだった。 しかし、伊藤博文をはじめとする長州派参議にとっては、対中開戦など論外だった。 第一に、正当性がない。 朝鮮新政府の側から見れば、日本公使館とその守備隊もクーデターの一味だった。 日本にも中国にも越権行為があり、五分五分の関係だった。 事態の解決は、日中双方の痛み分け以外にはなかった。 詳しい事情を知らないで激昂する言論界の非難を一身に受ける覚悟と、また政府内で勢力の拮抗する薩摩派の参議や軍人を説得する能力を持った政治家の登場が必要だった。 10年前(1874年)の大久保利通の役割を担ったのが長州派の参議伊藤博文だ。 彼は日中交渉の全権として、1885(明治18)年2月に横浜を発ち、4月4日から天津で中国全権の李鴻章との交渉に入り、大幅に譲歩して4月18日「天津条約」を結んだ。 日中両軍の朝鮮からの撤兵、両国による朝鮮軍の教練のための将校派遣の中止、今度出兵する時は相手国に「宣戦布告」する三条からなるもの。 それまでの間、両国は表面では平和を維持しながら、裏面では軍備の拡張に努めることにならざるを得ない、全面戦争を予感させるものだった。