「内に立憲」と「外に帝国」のせめぎあい2020/11/04 07:21

 日清戦争後の「帝国」と「立憲」のせめぎあいに、進む。 「大正デモクラシー」研究の第一人者、松尾尊兊(たかよし)氏の終生のテーマは、「内に立憲主義」による「外に帝国主義」の克服、帝国主義に反対した民主主義者を歴史の中に見出し、その努力を今日の日本人に伝えることが、その「大正デモクラシー」研究の目的だった。 明治末年から大正の初年にかけての日本の言論界で「内に立憲、外に帝国」という標語が使われたのは、韓国併合や満蒙権益(日露戦争後に得た、満州・内蒙古地方における日本の特殊権益)の拡大と国内の民主化との同時進行を肯定するためのものだった。 松尾尊兊氏は、朝鮮の植民地化や中国領土満州の半植民地化に反対した民主主義者を求めて、民本主義者吉野作造にそれを見出した。

 松尾氏は「大正デモクラシー」(「内に立憲」)により「外に帝国」に抵抗し、朝鮮や中国への侵略を批判した吉野作造の偉大さを指摘した。 逆に言えば、「大正デモクラシー」という国内の民主化運動全体は、「外に帝国」を容認していたことになる。 普通選挙を求める院外(議会の外)の民衆運動を院内で支持していた野党憲政会は、その与党時代に中国に押し付けた二十一カ条要求(1915年)を9年後の1924(大正13)年に政権に返り咲くまで、世界の国際協調の潮流を無視して擁護しつづけた。

 1912(大正元)年から13年にかけての第一次憲政擁護運動によって、それ以前の藩閥官僚(および軍部・貴族院)と政友会の二大保守勢力間の協調体制による政権たらい回し(いわゆる桂園(けいえん)体制)が壊れて以降、政友会と憲政会による「平和と民主主義の分有体制」はそれなりに、相互補完的に政治の質を向上させてきた。 1924(大正13)年、憲政会が「外に帝国」を放棄し、英米との協調と中国への内政不干渉に対外政策を転換した、いわゆる「幣原外交」の登場だ。 その憲政会総裁の加藤高明を首班とする護憲三派内閣が、1925(大正14)年に男子普通選挙法を実現、「内に立憲」の方も大きく前進した。 同年8月に政友会と革新倶楽部が内閣から離脱したため、憲政会が単独内閣を組織した。

 反対党の政友会は、同年4月に陸軍大将田中義一を総裁に迎えて以後、「外に帝国、内に天皇中心主義」の完全な保守党に変化した。 憲政会路線は軍部からの攻撃にもさらされ、原敬・高橋是清内閣時代の1921-22年にはワシントン軍縮を許容した海軍は、30(昭和5)年のロンドン軍縮には強い抵抗を示した。 「帝国と立憲」を軸に日本近代史を通観しようするのに重要なのは、陸軍の満蒙権益拡大の要求だ。 1895(明治28)年の日清戦争の勝利によって日本の「帝国」化の目標が朝鮮から満蒙に拡大したのは事実だが、それはあくまでも南満州と東部内蒙古の「特殊権益」の“維持”に限られていた。 それが1927(昭和2)年に保守政党の内閣が組織されたのを機に、陸軍の要求は「満蒙の“領有”」に転換する。 「外に帝国」の目標が一段と拡大したのだ。