「三田あるこう会」江の島探訪2020/11/07 06:57

中津宮より江の島ヨットハーバー

 11月1日、第527回「三田あるこう会」が行われ、江の島探訪に出かけた。 例によって10時30分の、小田急線片瀬江ノ島駅に集合。 駅前で地元近くご出身の当番、Kさんの江の島の歴史についての解説を聴く。 大森貝塚の発見者モースが臨海実験所を作ったとか、サムエル・コッキングという人が開いた植物園「サムエル・コッキング苑」が江の島頂上部にあるなど、江の島と外国人の関わりが印象に残った。

江の島に渡るのは、何年ぶりだろう。 江の島弁天橋に並ぶ、車道の江の島大橋は1964(昭和39)年の東京オリンピックのセーリング競技が江の島ヨットハーバーで開催されるのに合わせて造られたのだそうだ。 その江の島大橋のない時に渡った記憶しかないから、最後に渡ったのは学生時代、56年以上前だった、ということになる。

 素晴らしい天気、富士山も望める江の島弁天橋を渡り、昔とあまり変わらない弁財天仲見世通りを行く。 ほとんどの方が、階段を登ったが、お一人「エスカー」なるエスカレーターを利用する方がいたので、その方にくっついて易きに付く。 「あるかない会」である。 思えば、大学進学も「エスカー」であった。 朱の鳥居前(海抜18m)から一区目を上がると江島(えのしま)神社(辺津宮(へつのみや)海抜44m)、島内にある三つの宮、辺津宮、中津宮、奥津宮を総称して江島神社と呼び、それぞれの宮には海の守護神である女神が祀られているという。 「エスカー」の二区目を上がると中津宮(海抜50m)、皆さんが階段を上がってくる間に、江の島ヨットハーバーを見下ろす。 石碑や灯籠には、江戸歌舞伎の中村座、市村座の名や文化文政などの年号も見られ、江の島の歴史を感じる。 そういえば仲見世通りの岩本楼は、江戸時代は岩本院、歌舞伎「白浪五人男」の「岩本院の稚児上がり、普段着馴れし振袖から髷も島田に由比ガ浜」という弁天小僧の岩本院なのだそうだ。

 三区目の終点が「サムエル・コッキング苑」、江の島シーキャンドルなる展望灯台に登る。 高さ約60m、天辺で海抜約120m、春のような穏やかな海、かすかに大島、三浦半島、丹沢箱根の山から烏帽子岩の先に富士山、360度見渡せて、まことに気持が良い。 以前の展望灯台は、二子玉川園(戦前は読売遊園)にあったパラシュート練習塔を移築したものだったそうだ。

 帰路は、御岩屋道通り、「山ふたつ」という絶壁の断崖を覗いて、海沿いの森の道を朱の鳥居に出る。 昼食は、弁財天仲見世通りを下り切ったところにある磯料理「仙水」、当番のKさんが地元をよくご存じの方だけに、生しらす、鰺たたき、サラダと称するかんぱち(貝柱かと思った)とゲソ(烏賊)入りのぬた、さざえ丼、焼はまぐり、まことに結構なものだった。 お土産に井上総本舗の女夫饅頭、蒸し立てを経木に包んでくれた。  歩数計は、12738歩だった。

コメント

_ TAKASHI SUZUKI ― 2020/11/12 09:22

私事ですが江の島で思い出す一つのことは「真白き富士の嶺、緑の江の島」の歌です。逗子開成中学校の生徒さんたちが亡くなった海難事故を歌にしたものですが、小学生の私は「何故こんな痛ましいことを声に出して皆で歌うんだろう」と不愉快に思っていました。年齢を加えるにつれ「悲しいことを歌にする」文化が日本には(世界中でも?)あり、平家物語などその最たるものであることがわかってきました。でもまだ「真白き富士の嶺」の歌は好きになれません。まことに個人的感想です。

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