外山教授、外山正一(まさかず)のこと2020/11/16 07:16

 外山教授のほうは、詳しいことがわかる。 外山正一(まさかず)、英学、社会学を学んだ教育者で、後に東京帝国大学文科大学長・総長、貴族院議員、文部大臣(第三次伊藤博文内閣)を歴任した。 1848(嘉永元)年、江戸小石川柳町に220俵の旗本の子として生まれ、13歳で蕃書調所で英語を学び、1864(元治元)年には16歳で開成所の教授方となり、1866(慶応2)年勝海舟の推挙で中村正直らとともに幕府派遣留学生として渡英、イギリスの最新の文化制度を学ぶ。 幕府瓦解で1868(明治元)年帰国、静岡の学問所に勤めていたが、1870(明治3)年外務省に出仕、森有礼少弁務使の秘書として渡米する。 1872(明治5)年に辞職し、奨学金を得てミシガン州アナーバー・ハイスクールを経て1873年にミシガン大学に入学、哲学と科学を専攻し、1876(明治9)年帰国した。

 帰国後は官立東京開成学校で社会学を教え、1877(明治10)年、同校が東京大学(東京帝国大学)に改編されると、日本人初の教授となった。 ミシガン大学で進化論の公開講義を受けた縁で、エドワード・シルベスター・モースを東京大学に招聘した。 『日本その日その日』で、モースが江ノ島に行った数日後に訪ねてくる「政治経済学の教授」こそ、外山正一なのである。

 幕末期から明治初期にかけて欧米で学んだ外山の新知識は、当時の政府にとって重要なものだった。 だが大学での講義は、徹頭徹尾ハーバート・スペンサーの輪読に終始したので、学生からは「スペンサーの番人」といわれていたという。

 外山は、社会学、哲学だけでなく、文学にも関心を持っていた。 1882(明治15)年、同僚の矢田部良吉(コーネル大学卒、東京大学植物学初代教授、E・S・モースの江ノ島行きの初日に同行した)、井上哲次郎とともに『新体詩抄』を発表した。 従来の和歌・俳句と異なる新時代の詩の形式を模索して、習作を発表し、近代文学に多大な影響を及ぼした。 外山は『新体詩抄』に、自作の詩「抜刀隊」を載せた。 「抜刀隊」は後に、陸軍軍楽隊教官のフランス人シャルル・ルルーによって曲がつけられ、日本で最初の軍歌として爆発的にヒットし、「扶桑歌」「陸軍分列行進曲」とも呼ばれる行進曲として編曲され、旧陸軍から陸上自衛隊にまで受け継がれているという。

 英語、英文学教育の充実を考えた外山は、松江中学、第五高等学校などで教鞭を取ったギリシャ系アイルランド人、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に強く働きかけ、1896(明治29)年東京帝国大学英文学講師に招聘した。

 外山は、日本語のローマ字化推進のため『羅馬字会』を結成して漢字や仮名の廃止を唱え、九代目市川團十郎や依田学海らが実践していた演劇改良に参加、西洋列強と伍するためには教育の向上が必要であり、そのためには女子教育の充実と公立図書館の整備を訴えるなど、明治の教育文化活動において幅広く活躍した。

 1900(明治33)年、中耳炎からの脳症で死去、享年51歳。