矢田部良吉宛福沢書簡と、矢田部の生涯2020/11/18 08:08

 E・S・モースに関連して、外山正一や矢田部良吉、外山の友人生田氏〔?〕のことを調べていて、福沢諭吉がE・S・モースと浅からぬ関係のあったことを思い出した。 まとまって読めるのは、下記の三つである。

(1) 磯野直秀「矢田部良吉宛の福沢書簡とE・S・モース」(『福沢手帖』48、1986(昭和61)年3月20日・福沢諭吉協会)

(2) 松崎欣一著『三田演説会と慶應義塾系演説会』(慶應義塾大学出版会・1998(平成10)年)第V章 付論 第五節 E・S・モース宛福沢書翰について

(3) 慶應義塾編『福澤諭吉書簡集』第4巻の補注(ひと)16「E・S・モース」(2001(平成13)年・岩波書店)

 とりあえず、(1)磯野直秀慶應義塾大学経済学部教授(当時)の論文で矢田部良吉から見てみたい。 国立科学博物館に明治の植物学者矢田部良吉の資料が保管されていて、その中に矢田部良吉宛の福沢書簡が一通あるという新資料の紹介である。 明治15年6月16日付のこの手紙は、のちに『福澤諭吉書簡集』第3巻に書簡番号664として収録された。 再来日したE・S・モースの歓迎晩餐会が、22日に木挽町の精養軒で開かれる案内をもらい、当日差し支えもないので、出席するつもりだが、22日とだけあって、開催時刻が書いてないので、ご一報いただきたい、という内容である。 再来日というのは、陶器と民具類蒐集のためだった。

 磯野直秀教授によると、矢田部良吉は嘉永4(1851)年9月19日に、伊豆韮山で生まれ、慶応初年横浜に出て中浜万次郎や大鳥圭介に英学を学んだ。 明治2(1869)年5月に開成学校教授試補となり、ついで翌3年10月には外務省文書大令使に任命され、初代アメリカ公使森有礼とともに渡米したが、明治5(1872)年に外務省を辞任してコーネル大学に入学した(外山正一と同様の経歴である)。 同大学では植物学を学び、明治9(1876)年6月に卒業して帰国、同年9月に東京開成学校五等教授に任ぜられ、12月には文部省東京博物館(のち教育博物館)館長を兼任した。 また明治10(1877)年には東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学が創立されたが、矢田部良吉はその理学部生物学科の初代植物学教授となり、E・S・モース初代動物学教授とともに、近代的生物学の礎を築く役割を担うのである。

 しかし、矢田部の活動は生物学に留まるものではなかった。 明治14(1881)年には『東洋学芸雑誌』の創刊に尽力し、16日の「外山教授、外山正一(まさかず)のこと」で見たように外山とともに、『新体詩抄』を出版し、ローマ字論者の草分けでもあった。 明治20(1887)年から明治23(1890)年まで東京盲唖学校長を、21年から23年まで東京高等女学校長を兼任しており、女子教育の振興に力を尽くした。 だが、明治24(1891)年4月、突然に大学の教授を非職(休職)となる。 詳細は伝わらないが、方々に敵をつくり、諸活動で本務が疎かになった点を口実にされたという。 そののち高等師範教授、明治31(1898)年には同校校長となったが、翌32年8月7日、鎌倉で遊泳中に溺死した。 47歳だったことになる(外山正一で思ったのだが、東大の総長や文部大臣を歴任した人が51歳で亡くなっているのを知り、明治の大臣の平均年齢は、どれほど若かったのか、今と比較して、つい「今昔の感」を感じた)。