モースの慶應義塾での講演、剣術見学2020/11/21 07:18

 モースの慶應義塾における講演は、明治12(1879)年7月11日だったようで、当時の塾生永井好信の日記に記述がある。(『慶應義塾百年史』上巻680頁) 「此日午前十時半頃東京大学の教授「モールス」、メンデンホール、フェノロサの三氏及び英国の女一人来り、当塾教授を一見し、終て柔道場に至り、柔術、剣術を見、夫れより三階に至り午飯を喫し、終て書生一同で公開演説館に会し、モールス氏変進論(エボリューション・進化論)を演説し、矢田部氏之を口訳せり。右演説をはり暫時万来舎にて福沢先生及び教師と談話し帰れり。」 矢田部良吉が通訳していたことがわかる。

 松崎欣一さんは、この講演は大きな反響を呼んだようで、福沢諭吉の「功名論」と題する講演筆記の一節に、つぎのような件りがある、という。  「達賓(ダービン=ダーウィン)の如き、天下の説を一変したる者は、其人 既に死するも、其説は彼の浪線となり、万邦に伝播し、遂に我慶應義塾にまで其余波を及ぼし、達賓の説浪は今日我塾内に立てり。」(読み易さのために、片仮名を平仮名にした。)

 モースの『日本その日その日』には、昨日引用した後のところで、学生の剣術を見たことが書かれている。 「講演後福沢氏は私に、学生達の素晴しい剣術を見せてくれた。彼等は皆剣術の甲冑を身につけていた。それは頭部を保護する褶(かさね)と、前方に顔を保護する太い鉄棒のついた厚い綿入れの冑(かぶと)と、磨いた竹の片で腕と肩とを余分に保護した、つっぱった上衣には綿入れの褶数片が裾(すそ)として下っている。試合刀は竹の羽板を数本しばり合わせたもので、長い日本刀に於ると同じく、両手で握るに充分な長さの柄がついている。大なる打撃は頭上真直に来るので、両手で試合刀を縦に持ち、片方の手を前方に押すと同時に下方の手を後に引込ます結果、刀は電光石火切り降される。」

 「学生達は五十人ずつの二組に分れ、各組の指導者は、自分を守る家来共を従えて後方に立った。指導者の頭巾の上には直径二インチ半で、糸を通す穴を二つあけた、やわらかい陶器の円盤があり、対手の円盤をたたき破るのが試合の目的である。丁々と相撃つ音は恐ろしい程であり、竹の羽板はピシャンピシャンと響き渡ったが、もっとも撲った所で怪我は無い。」

 「福沢氏は、有名な撃剣の先生の子息である一人の学生に、私の注意を向けた。彼が群集をつきやぶり、対手の頭につけた陶盤をたたき潰した勢は、驚く可きものであった。円盤は数箇の破片となって飛び散り、即座に争闘の結果が見えた。学生達は袖の長い籠手(こて)をはめていたが、それでも戦が終った時、手首に擦過傷や血の出るような掻き傷を負った者がすくなくなかった。」