池澤夏樹さんの小説「また会う日まで」2020/12/01 07:08

 池澤夏樹さんが、8月1日から朝日新聞朝刊に連載している小説「また会う日まで」を、毎朝興味深く読んでいる。 戦前戦中に海図の製作などを担う水路部に所属した海軍軍人、秋吉利雄の生涯を描いている。 実在の人物で、池澤さんの父方の祖母の兄にあたる(親戚関係が複雑だけれど、池澤さんの父である、作家福永武彦とのつながりが追々明らかになってくる)。 秋吉利雄は、幼い頃から敬虔なキリスト教徒で、海軍兵学校を出て少将まで務めた軍人であり、東京帝大に学んだ天文学者という、三つの側面を持っていた。

 連載を前に、池澤夏樹さんが語っていた(7月28日朝日新聞朝刊)。 「クリスチャンで軍人って、矛盾しているでしょう。さらに科学者なんですから」。 自らの作った天文暦をもとに飛行機が飛び爆弾を落とした。 仲間は次々に死んでいった。 彼にあの時代はどう見えていたのか。 米国留学帰りの妻をはじめ秋吉の周りには個性的な女性も多い。 近代史に関する様々な書物に加え、親族からの膨大な資料がある。 「事実はなるべく動かさず、いかに彼の内面を推察するか。与えられた制限の範囲内で芸術はうまれるわけだから」、と。

 物語は「終わりの思い」の章で始まる。 1947(昭和22)年3月、秋吉利雄は十日ほど前、光雄にせがまれて後楽園球場に何か実業団の試合を観に行った。 九品仏の家から大井町へ出て、秋葉原から水道橋に向かった(私が子供の頃は、中延の家から大井町へ出て、東京駅で乗り換えて水道橋に行った)。 雨に打たれて、風邪を引き、肺炎になって、運ばれたのが近くの国立東京第二病院、元々は海軍の病院だった。

 「九品仏の家」といえば、今私の住んでいる近くだろう。 戦後育ちの私は、駒沢の国立東京第二病院(今は国立病院機構東京医療センター)が、海軍の病院(海軍軍医学校第二付属病院)だったことは、知らなかった。 等々力から越してきて、私の住む奥沢界隈が海軍軍人の多く住む海軍村だったことを知った。 海軍大学校や実験施設が目黒(上大崎)にあり、横須賀へ行くのにも交通の便がよかった。 奥沢というと、学生時代に下宿していたという話を度々聞いたが、海軍軍人の未亡人が下宿をやっていたケースもあったようだ。 中学に通った当時、明治学院の隣は海軍墓地だったけれど、今は明治学院大学の、校舎の敷地になっているのだろうか。

 秋吉利雄は「終わりの思い」の病院で、帰天の時の近いことを意識して、力のない声で歌うべきは、「主よみもとに近づかん」か、「また会う日まで」か、と考えている。 私は、どちらの讃美歌も、明治学院中学で歌っていた。

 「神ともにいまして ゆく道をまもり 天(あめ)の御糧(みかて)もて 力を与えませ また会う日まで また会う日まで 神の守り 汝が身を離れざれ」

海軍兵学校の普通学、三角法の最初の授業で2020/12/02 07:28

 池澤夏樹さんの小説「また会う日まで」。 秋吉利雄は1892(明治25)年11月18日、牧師の父・井上岩吉(福岡・水城生まれ)、母・吉広ナカ(二日市生まれ)の子として長崎で生まれ、鎮西学院を首席で卒業、18歳で江田島の海軍兵学校42期生となった。 卒業後、練習航海や艦の乗務が続き、26歳の時に横須賀の海軍水雷学校に入り、駆逐艦「沢風」の艤装のために長崎の三菱造船所に異動、竣工と同時に同艦に乗務、28歳を前に佐世保鎮守府勤務となる。 その後、東京帝大理学部で本格的に天文学を専攻すると決め、1926(昭和元)年33歳で卒業、築地の水路部に配属され、終戦まで19年間勤務した。

 海軍兵学校、午前中は普通学と呼ばれる課目で、国語、漢文、英語、代数、幾何、三角法、物理、化学、地理、歴史、倫理。 この課目がその後一つ残らず役に立った。 数学と理科は生涯を貫く主軸となったし、英語は実地に用いる機会が多かった。 地理は練習航海において、南洋の日食観測において、その後の戦争の展開を理解するにおいて、有用だった。

 三角法の最初の授業で、教官が質問した。 「ある男が立っている地点から南へ三里歩いた。そして東へ三里歩いた。更に北へ三里歩いた。すると男は元の場所に戻っていた。そこはどこか?」

 みな狐につままれたような顔をしている。 秋吉利雄は、しばらく考えて答えが閃いた。 「北極点です」 「そのとおり。諸君はこれから三角法を学ぶ。初めは平面三角だが、本格的にやるのは球面三角法だ。なぜなら航海術で必要になるのはこちらだから。平面の三角形では内角の和は二直角と決まっているが、球面では三直角にもなり得る。先の男が歩いた軌跡は正にその例だ」 利雄は、これを美しいと思った。

 「諸君はこれからもっぱら海里という距離の単位を用いる。英語ではノーティカル・マイル。これは1852メートルであって、陸上の1609メートルだから一割半ほど長い。なぜか?海里は緯度にしてちょうど一分(いっぷん)なのだ。60倍してみたまえ。一度の距離が得られるはずだ」 「111キロです」 「その90倍は?」 「1万キロです」 「ご名算。メートルという単位は極点から赤道までの距離の1千万分の1という原理に沿ってフランス人が測量によって作った。実際には誤差もあったので今はメートル原器によって定義されている」 知識は甘露だと、利雄は思った。

鈴木貫太郎中将、1918(大正7)年のスピーチ2020/12/03 07:05

 鈴木貫太郎は、海軍大将、連合艦隊司令長官、軍令部長、侍従長、枢密顧問官などを歴任、2・26事件で重傷を負い、太平洋戦争末期内閣総理大臣となり、ポツダム宣言を受諾した人物だが、秋吉利雄と二度、縁があった。

 第一は、海軍兵学校卒業後、1918(大正7)年の米国と中米への練習艦隊航海に中尉で参加したが、鈴木貫太郎は中将で艦隊司令官だった。 乗艦は「磐手」と「浅間」と異なっていたから直接に言葉を交わしたことはなかったが、アメリカに上陸しての晩餐会で、司令官のスピーチを陪聴することができた。 もし日米が戦うことがあれば、という容易ならぬ話題だった。

 「この日米戦争はアメリカでも日本でもしばしば耳にする。しかしこれはやってはならぬ。いくら戦っても日本の艦隊は敗れたとしても日本人は降伏しない。なお陸上であくまで闘う。もしこれを占領するとしたらアメリカで六千万の人を持って行って六千万と戦争するよりほかにない。アメリカは六千万人を失って日本一国をとったとしても、それがカリフォルニア一州のインテレストがあるかどうか。日本が勝ったとしても、アメリカにはアメリカ魂があるから降伏はしないだろう。ロッキー山までは占領できるかしれんが、これを越えてワシントン、ニューヨークまで行けるかというに日本の微力では考えられない。そうすると日米戦は考えられないことで、兵力の消耗で日米両国はなんの益もなく、ただ第三国を益するばかりで、こんな馬鹿げたことはない。太平洋は太平の海で神がトレードのために置かれたもので、これを軍隊輸送に使ったなら両国ともに天罰を受けるだろう。」

日露開戦前夜、海防艦「春日」をイタリアから回航2020/12/04 07:09

 秋吉利雄と鈴木貫太郎、第二の接点は、1933(昭和8)年の暮、利雄が中佐で「春日」に乗って南洋のローソップ島に日食観測に行く準備に追われていた時だった。 鈴木貫太郎は海軍大将から予備役に入り、天皇陛下に仕える侍従長になっていた。 陛下とは格段に親しい侍従長という噂もあった(それが2年後の2・26事件の受難に繋がるのだが)。

 鈴木侍従長から会いたいという連絡が入った。 場所は飯倉の水交社、日曜日の午後のハイ・ティーの時間、こんなところも海軍はイギリス式だった。

 「君が秋吉利雄か」と言われる。 「はいっ!」 「まあ、そう固くならんで。海軍大学校から東大に行った変わり者だと聞いている」 天文学者として今回の日食観測を率いると聞き、その観測隊を乗せてゆく海防艦「春日」について、老人の昔話を聞いてくれ、と。 そう言われて一気に緊張が緩んだ。

 「春日」と「日進」はイタリアで造られた。 アルゼンチン海軍の注文で、「リバダビア」と「モレノ」と命名までされていた。 ところがアルゼンチンは隣国との和平成って、その条件を満たすため両艦を受け取れなくなった。 我が国の外交官が、ではこちらで買い取ると申し出た。 対露戦前夜のことだ。 その時、鈴木貫太郎はドイツ駐在というか留学して、近隣諸国を巡り、欧州事情を学んでいた。 1903(明治36)年の暮、いきなりイタリアへ行けという電報が海軍大臣から届いた。 艦を受け取って日本へ回航せよと言う。 34歳か35歳、ジェノアへ行ってみると、艦は艤装の真っ最中だった、1月4日のことだ。 8日には出港せよとの本省の命令だったので、艤装を続行すべくイギリスやイタリアの職工を乗せたまま解纜(かいらん)した。 その前に「春日」と「日進」と命名し、我が艦籍に入れた。 ともかく急いだのだ。

 こちらの動きをロシアは監視していて、地中海に待機させてあった軍艦をスエズ運河の入口ポートサイドに送り出し、待ち伏せの態勢を取った。 軍艦を調達したことが、ロシアの開戦の理由になったと聞きましたが、と秋吉。 いわばきっかけを探している時期だった。 回航の途中で開戦となれば我々とロシアは地中海なり紅海なりインド洋なりで砲火を交えることも考えられる。 緊張のもとに東へ向かったのだが、その間もトンテンカンテン艤装は続いている。 重責だった、海軍は時として国の命運を左右するものだ。 しかしこの時は力強い味方がついた。 マルタ島に停泊していた英国海軍の装甲巡洋艦「キング・アルフレッド」が出てきて、以後は先導してくれた。 先をロシア艦隊が進み、その後を英艦が行き、我らが続く。

 スエズ運河でちょっとした駆け引きがあった。 運河入口のポートサイドで、我が艦も、ロシア艦も載炭の予定だったが、英国が気を利かせて、ここでの給炭は日本の艦を優先すると言ってくれた。 ロシア艦の一部は石炭を積まずに運河出口のスエズに行ってしまっていたが、それでも残りのロシア艦を後に残してこちらは進むことができた。 スエズ運河を抜けて、艤装も完成に近づいたのでアラビア半島のアデンで技師や職工を降ろしてインド洋に入った。 ロシア艦隊は我々に諦めて帰っていった。 英艦「キング・アルフレッド」から「日露間の交渉は切迫しており、早晩開戦は免れない形勢。よき航海を祈る」と連絡が入った。 日英同盟は機能していた。

 長い航海の途中、乗組の者がどんどん変わる。 行く先々で補充し、一時は8か国の人間が乗務していた。 2月16日に横須賀に入港したが、途中はぐれたので「日進」より後だった。 聞けば日露はすでに開戦していた。 我々がシンガポールを出たのがきっかけだったらしい。

 後に、その鈴木貫太郎と、天皇陛下が、太平洋戦争を終わらせた。

天皇陛下、1937(昭和12)年水路部でお言葉2020/12/05 07:10

 1937(昭和12)年3月26日、天皇陛下の水路部行幸があった。 秋吉利雄は四課を率いて「天文及び潮汐作業掌理、ならびに潮汐潮流調査観測。潮汐表編纂」などを担当していた。 各課の課長が第一種軍装に身を包み、直立不動で会見に臨んだ。 「第四課課長、秋吉利雄大佐」と部長が紹介した。 陛下はわたしより八歳ほどお若くてあられる。 側近の者が手元の書類を見ながら陛下の耳に何かささやいた。 「秋吉」と陛下が言われた。 「ローソップ島の日食観測を率いたのはおまえか?」 「はいっ」 しばらく黙してから、「あれは見事であった」と仰せられて、またしばらくの沈黙。 「我が国の科学の力を世界に示す偉業であった。私も新聞の報道を追っていたぞ」 わたしの心の中で喜びが湧いた。 わたしはその喜びを主に感謝した。 ローソップ島の日食観測は三年ほど前のことだ。 「忝(かたじけな)いことであります」と深く低頭した。

 「私は水路部の業務が好きだ」とやがて陛下は仰せられた。 「誰か、海図を取ってきてくれないか。6363、相模湾」 5分ほどして、その海図が来た。

「今年の正月を私は葉山の用邸で過ごした。そして毎日油壷の港から船を出して海生生物の採集に勤(いそ)しんだ。冬の海上の寒さも厭(いと)うことではなかった。その時に私の手元にあったのは何か?」 「この相模湾の海図だ。あの湾の海底地形はすべて頭に入っている。それでも海に出るごとに航路を書き込む。今回はもっぱら南甘鯛場に行ったが、この名は海図にはない。あれは漁師たちの俗称で、海図ではここ、鎌倉海脚のあたりだ」 みなみな陛下のお言葉を拝聴した。

 「水路部の業務ぜんたいについて述べておきたい。これは世の役に立つ大事な仕事だ。みな知っていると思うが、私にとって生物学の研究はただの趣味ではない。天皇としての責務とは別に、私人としてこの分野で何か業績を残したいと念じている」

 「水路部は海軍に属する。しかしここは海軍水路部ではなく、ただの水路部である。なぜならば海図を使うのは軍艦ばかりではないからだ。民間の船もみな日々の航海を海図に頼っている。あるいは航海暦を用いている。無論、戦時のための用意ということはある。しかしながらその日が来ないことが海軍にとっても望ましい。日常の艦の運用の役に立ち、国内のみならず内南洋の島々など遠方の港に艦が赴いた時に安全に入港するために、海図の周到な準備は必須である。ローソップ島がいい例だな、秋吉?」 「はい、よい海図がありました」

 「だからさ」と陛下は急に口調を崩して言われた。 「秋吉はじめ水路部の面々はみな戦時ばかりでなく、むしろ平時のために必須のお国の部材なのだよ。それぞれの職責において優秀なのであるからして、逸(はや)ることなく陸地にあって、また海上にあって、力を発揮してもらいたい」

 わたしは頭を下げてお言葉を聞き、ほとんど涙を催した。

「以上、朕(ちん)の惟(おも)うところである。秋吉、元気でな」

陛下は退場された。