日露開戦前夜、海防艦「春日」をイタリアから回航2020/12/04 07:09

 秋吉利雄と鈴木貫太郎、第二の接点は、1933(昭和8)年の暮、利雄が中佐で「春日」に乗って南洋のローソップ島に日食観測に行く準備に追われていた時だった。 鈴木貫太郎は海軍大将から予備役に入り、天皇陛下に仕える侍従長になっていた。 陛下とは格段に親しい侍従長という噂もあった(それが2年後の2・26事件の受難に繋がるのだが)。

 鈴木侍従長から会いたいという連絡が入った。 場所は飯倉の水交社、日曜日の午後のハイ・ティーの時間、こんなところも海軍はイギリス式だった。

 「君が秋吉利雄か」と言われる。 「はいっ!」 「まあ、そう固くならんで。海軍大学校から東大に行った変わり者だと聞いている」 天文学者として今回の日食観測を率いると聞き、その観測隊を乗せてゆく海防艦「春日」について、老人の昔話を聞いてくれ、と。 そう言われて一気に緊張が緩んだ。

 「春日」と「日進」はイタリアで造られた。 アルゼンチン海軍の注文で、「リバダビア」と「モレノ」と命名までされていた。 ところがアルゼンチンは隣国との和平成って、その条件を満たすため両艦を受け取れなくなった。 我が国の外交官が、ではこちらで買い取ると申し出た。 対露戦前夜のことだ。 その時、鈴木貫太郎はドイツ駐在というか留学して、近隣諸国を巡り、欧州事情を学んでいた。 1903(明治36)年の暮、いきなりイタリアへ行けという電報が海軍大臣から届いた。 艦を受け取って日本へ回航せよと言う。 34歳か35歳、ジェノアへ行ってみると、艦は艤装の真っ最中だった、1月4日のことだ。 8日には出港せよとの本省の命令だったので、艤装を続行すべくイギリスやイタリアの職工を乗せたまま解纜(かいらん)した。 その前に「春日」と「日進」と命名し、我が艦籍に入れた。 ともかく急いだのだ。

 こちらの動きをロシアは監視していて、地中海に待機させてあった軍艦をスエズ運河の入口ポートサイドに送り出し、待ち伏せの態勢を取った。 軍艦を調達したことが、ロシアの開戦の理由になったと聞きましたが、と秋吉。 いわばきっかけを探している時期だった。 回航の途中で開戦となれば我々とロシアは地中海なり紅海なりインド洋なりで砲火を交えることも考えられる。 緊張のもとに東へ向かったのだが、その間もトンテンカンテン艤装は続いている。 重責だった、海軍は時として国の命運を左右するものだ。 しかしこの時は力強い味方がついた。 マルタ島に停泊していた英国海軍の装甲巡洋艦「キング・アルフレッド」が出てきて、以後は先導してくれた。 先をロシア艦隊が進み、その後を英艦が行き、我らが続く。

 スエズ運河でちょっとした駆け引きがあった。 運河入口のポートサイドで、我が艦も、ロシア艦も載炭の予定だったが、英国が気を利かせて、ここでの給炭は日本の艦を優先すると言ってくれた。 ロシア艦の一部は石炭を積まずに運河出口のスエズに行ってしまっていたが、それでも残りのロシア艦を後に残してこちらは進むことができた。 スエズ運河を抜けて、艤装も完成に近づいたのでアラビア半島のアデンで技師や職工を降ろしてインド洋に入った。 ロシア艦隊は我々に諦めて帰っていった。 英艦「キング・アルフレッド」から「日露間の交渉は切迫しており、早晩開戦は免れない形勢。よき航海を祈る」と連絡が入った。 日英同盟は機能していた。

 長い航海の途中、乗組の者がどんどん変わる。 行く先々で補充し、一時は8か国の人間が乗務していた。 2月16日に横須賀に入港したが、途中はぐれたので「日進」より後だった。 聞けば日露はすでに開戦していた。 我々がシンガポールを出たのがきっかけだったらしい。

 後に、その鈴木貫太郎と、天皇陛下が、太平洋戦争を終わらせた。

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