寛永寺根本中堂、慶應史学科卒の貫首晋山式2020/12/13 07:58

晋山式を前にした根本中堂

この辺りは、志木会の「歩こう会」や「枇杷の会」の吟行のほか、何度か来たことがあった。 しかし、案外見残しがあるもので、寛永寺の根本中堂へ行ったことがなかった。 根本中堂、もともとは上野公園の大噴水のところに建っていたが、幕末、慶応4(1868)年の彰義隊の戦争で焼失、10月の「三田あるこう会」で行った川越喜多院の本地堂を、明治12(1879)年、山内の子院、大慈院(現寛永寺)の地に移築し、再建されたものだそうだ。

 葵の御紋の根本中堂、たまたま翌日は貫首晋山式というので、境内の桜の紅葉落葉の清掃など準備が進められていた。 寛永寺貫首は輪王寺門跡門主も兼ね、「天台宗東叡山輪王寺門跡門主・寛永寺貫首」、2月12日に第32世門主に就任し、このたび晋山式に臨む浦井正明氏(83)は、慶應義塾大学文学部史学科卒だそうだ。 昭和12(1937)年、寛永寺の子院・現龍院の生まれ、天台宗内では、寛永寺執事長、海外伝道事業団理事や出版企画委員長、一隅を照らす運動総本部理事、同顧問、東京教区議会副議長などを歴任したという。

 宗教と文化の専門新聞「中外日報」4月28日付「ひと」によると、浦井正明氏は東洋史の学者になった兄の影響で歴史の本に親しむ内に自然と慶應の史学科に進んだが、大学院の途中で寺に呼び戻されたことを今でも残念に思っているという。 その後不忍池辨天堂に8年詰めた。 寛永寺は彰義隊が立てこもった上野戦争と第二次世界大戦の空襲で壊滅的な被害を受けて、史料がまとまった形で残っていない。 若い頃から古本屋などで関係史料をコツコツ集め続けてきた。 特に寛永寺開山・天海僧正についての研究はライフワークで、書簡などの一次史料から見えてくるその姿は、「悪く言えば頑固。筋の通らないことはたとえ幕閣相手でも譲らない芯の通ったお人柄」だそうだ。 「時代とともに寺も変わらなければいけない。将軍家の菩提寺・寛永寺を庶民も自由に参ることができる寺とした天海僧正の精神を大事にしていきたい」という抱負を、佐藤慎太郎記者に語っている。

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