読売新聞に記事を書いてくれた小谷直道君2020/12/17 07:02

 もう14年にもなるのだ。 その記事を書いてくれた小谷直道君が亡くなった時、こんなことを書いていた。

        高校新聞仲間の死<小人閑居日記 2006.4.27.>

 満65歳の誕生日。 立派に高齢者の仲間入りである。 少し前に、介護保険証なるものが送られてきた。 たしか、浜離宮や六義園など都立の公園の入園料が半額になる。 今まで頂戴していたのが「特別支給の老齢厚生年金」というもので、これからが「特別支給」でない本物の「老齢基礎年金」と「老齢厚生年金」だということも、あらためてわかった。

 五日前に、高校時代の新聞仲間に死なれて、ショックを受けている。 まだ64歳だったくせに、死んでしまった。 彼は日吉の高校で“ハイスクール・ニュース”という新聞を作っていた。 学生時代から、私の書くものを評価してくれていた男だ。 大学新聞でコラム執筆を依頼してくれて、初めて原稿料というものをもらった。 原稿料をもらって書くのが、とても苦しいことだということが、わかった。

 読売新聞社に入って15年目には「都内版」に、3年目151号になっていた「等々力短信」を、べらぼうに大きく取り上げてくれた。 「本屋で見かけた大平さん」「落語博物館が欲しい」「福沢のジョーク集」など短信の本文も4回分載せ、「はがきに世情映した“超ミニコミ紙”」「発行部数四十部。はがきにタイプ印刷した一回四百字にも満たないものだが、中身は政治、経済、社会、文化と多岐にわたり、定期読者も国内ばかりか海外にもいる“クオリティー・ペーパー(高級紙)”だ」「街角の“コラムニスト”が生まれている」と書いてくれた。 取材に来た時、社会部だったが756号のホームラン記録までの王貞治選手に密着取材した話を聞かせてくれた。 短信500号の記念の会では、スピーチをしてくれた。 彼は話もうまくて、面白かった。 その会でもう一人、高校同級生の老人病院院長にスピーチしてもらったのだが、二人は偶然、後に新病院建設事業のパートナーになる。 その病院は、昨年3月オープンした。

 夏になると、太平洋戦争の戦跡をめぐる連載企画を書いたりしていたのは、中国山東省済南市生まれということと関係があったのだろうが(母子家庭だったような記憶もある)、その話はしなかった。 シドニー特派員、社会部次長を経て、論説委員になり、10年間、福祉・医療・年金など社会保障を担当した。 著書に『市民活動時代のボランティア』(中央法規)がある。 大阪本社取締役編集局長をやり、亡くなるまでよみうりランドの社長だった。 ああ、小谷直道君。 悲しいぞ。