永井荷風と広尾光林寺ヒュースケンの墓2020/12/28 06:57

 19日に、来年2月の「三田あるこう会」の下見で、当番の宮川幸雄会長の補助、新入りの見習いとして、上大崎の常光寺と港区立郷土歴史館、昼食場所の予約に同行させてもらった。 旧公衆衛生院の建物を使った港区立郷土歴史館は2018(平成30)年11月にオープンしたそうだが、初めて行った。 常設展だけを見たが、立派な施設で、内容も建物も見応えがある。 宮川さんと話しながら見ていて、善福寺や東禅寺に外国の公使館があった展示のあたりだったか、永井荷風に詳しい宮川さんが「『断腸亭日乗』に、荷風がヒュースケンの墓をしばしば訪れている。その寺は光林寺で、一篇の文章がある」というようなことを話してくれた。

 光林寺は天現寺の近く、昔、「光林寺前」という都電の停留所があった寺だ。 よくメールをくれる友人の家の墓所があると聞いていた。 最近では、樹木希林の葬儀があって、墓もあるはずだ。 家に帰って、岩波文庫の『摘録 断腸亭日乗』をパラパラやっていると、(下巻)昭和二十一年丙戌歳(1946年)の「一月初二。ヒュースケン墓の事をかきて『墓畔の梅』と題し時事新報社に送る。」とあった。 『時事新報』は、戦後の昭和21(1946)年1月1日に、戦前主筆を務めていた板倉卓造や、『産業経済新聞』を率いていた前田久吉らの手によって復刊したから、その復刊直後に、永井荷風が寄稿していたことになる。

 『墓畔の梅』で探すと、岩波文庫の永井荷風『問はずがたり・吾妻橋 他十六編』に収録されていることがわかった。 5ページほどの短編だ。 「故郷の東京には、去年の秋流寓先から帰ったその日、ほんの一夜を明(あか)したばかりなので、その後は東京の町がどうなったか、何も知るよしがない。」と始まる。 春が近くなって、何かにつけてアメリカのことが胸底に往来する折からか、ある年の春、麻布広尾の光林寺の後丘に米国通訳官ヒュースケンの墳墓をたずねたことを思い出した、というのである。