ヒュースケンの暗殺、光林寺での葬儀2020/12/29 07:12

 永井荷風の『墓畔の梅』は、ヒュースケンの事績へと続く。 開港前、下田に上陸した米国の使節タウンゼント・ハリスが、幕府の役人と談判するのにオランダ語が必要だったことから、オランダ人でアメリカ人でもある(21歳でアメリカに渡り、国籍を取得)ヒュースケンを通訳として連れてきた。 本国オランダには母がいたという。 ヒュースケンは米国公使館が九段下から麻布善福寺境内に移されてから、ある夜、芝赤羽橋外異人接遇所から馬で善福寺に帰る途中、新河岸で日本の刺客数人に襲われ重傷を負い、公使館に運ばれると間もなく息を引き取った。 荷風は座右に参考書がないので、歳月を明記できないと書いているが、万延元年12月5日(1861年1月15日)のことだった。

 葬式はどういう関係か、善福寺では行われず、それほど遠くない広尾の光林寺で営まれ、裏手の岡の墓地に埋葬された。 その時の光景は、英国公使オルコックの『大君の首都における三年』と題された名高い記録に細述されている。 それによると、葬儀の主宰者はフランスの伝道師某氏で、英米独仏の使節と随員が参列し、ドイツ軍艦から上陸した海兵が軍楽を吹奏した。 荷風がヒュースケンの墓を見ておきたいと思ったのは、このオルコック公使の記録に誘われたからだという。 その記録は乾燥した報告書ではない、オルコックは後に江戸浮世絵の蒐集家として欧州の好事家に知られた人だけあって、観察は細微に渉り、文章は理路整然としていながら、時には神経質かと思われるほど感情に富んでいる、というのである。

 荷風は、十余年ほど前、満州事変が起こって、世の中に頻々と暗殺が行われ始めた頃、日本刀のために生命を失った外国使臣の運命を悲しむ情が、にわかに激しくなって、光林寺を訪れた。 慶應義塾の教壇を退いてから、久しく広尾あたりを通る機会がなかった。 四谷塩町から青山霞町を過ぎて広尾に至る市内電車が初めて開通したのはずっと以前のことで、その時分には笄橋から広尾の麓を過ぎて三ノ橋に至る小流の岸には昔ながらの郊外らしい田園の風趣が残っていて、流れの堰が瀑となるあたりには水車が緩やかに回っていた。 しかし震災後になって、電車は広尾の曲り角から、その支線を豊沢から恵比寿の方へと延長させるようになって、水車の回っていたあたりは、市中のどこでも見られるような乗換場の雑踏を呈する所と化した。

(『日本鉄道旅行地図帳』5号(新潮社)によると、「信濃町線」四谷塩町(当初、塩町)~北青山一丁目は明治39(1906)年・明治40(1907)年、「広尾線」北青山一丁目~天現寺橋は明治39(1906)年、「恵比寿線」天現寺橋~恵比寿は大正2(1913)年の開通となっている。)

福沢諭吉は、このあたりをよく散歩した。 三田から広尾、常光寺のあたりまで、「散歩党」という塾生たちを連れて…。 私はてっきり今と同じような、町中を歩いたのかと思っていたが、芳賀徹・岡部昌幸著『写真でみる江戸東京』(新潮社とんぼの本)に、例のベアトが撮った幕末の「古川と中之橋付近」「三之橋付近」の写真があった。 古川の両岸はかなり広い草地になっていて、武家屋敷や寺は見られるものの、江戸は森の都、緑したたる田園風景なのだ。 明治半ばの散歩の頃も、そう変らなかっただろう。