城山三郎さんと水中特攻部隊「伏龍」2021/01/12 07:02

 城山三郎さんは2007(平成19)年3月22日に亡くなった。 その秋、城山三郎さんの『仕事と人生』(角川書店)という本を読んだ。 城山三郎さんは、茅ヶ崎にお住いだった。 仕事場にしていた高層マンションのデスクからも、光っている相模湾が見えたという。 その海は、実は昭和20年、少年兵だった城山さんの最期の地となる筈の場所だった。 城山さんが自ら志願し「七つボタンの練習生」として入隊した海軍で、配属されたのは油壺を根拠地とする(のちに知ったことだが)水中特攻部隊「伏龍」だった。 配置場所は湘南海岸、一帯が遠浅の海岸で、しかも東京に近い、戦争末期、ここは東京を目指す米軍の最高の上陸地点だと考えられていた。 もはや艦船もないので、竹の棒の先に爆薬を取りつけ、潜水服の少年兵を海底縦横50メートルに展開(前後90メートルという記述もある)待機させて、上陸してくる米軍艦船の船底に穴を開けてやろうという作戦だった。

 その50年ほど前、茅ヶ崎に土地探しに来た城山さんは、砂浜に奇妙な建造物があるのを見つけた。 小さな掲示板があり、特攻の基地うんぬんと記してあった。 そして、瀬口晴義著『人間魚雷「伏龍」特攻隊』(講談社)を読んで、初めて事実を、当時の自分の運命を知った。 心の中に怒りと嘆きなど燃え上がるものがあって、それまでのように、海をおだやかに眺める気分は、吹き飛んでしまった、と書いている。

 城山三郎さんは長男で、下はずっと女だったから、予科練に志願したり兵学校を受けることには、両親が反対だった。 それが、お父さんが徴兵されてしまったので、これ幸いと徴兵猶予を取り消して、17歳で海軍の「特別幹部練習生」を志願した。 お母さんは笑顔で送ってくれたけれど、実際は一晩中泣いていた、という。 戦後、あれは「志願」ではなかった、言論の自由のない当時の社会や国が「強制」したのだ、と気づく。 「志願」と思わせられた自らの未熟さを恥じ、「志願」と思わせた指導者たちへの告発として、軍国少年の戦後を長編『大義の末』に書いた、という。

 その体験から、2001年に個人情報保護法案が提出されたとき、反対に立ち上がり、『言論の自由の死』の碑を建てて、その法案に賛成した議員全員の名前を刻む、と言った。 しかし、新法案は可決されてしまった。

 城山三郎さんは、人間魚雷「伏龍」特攻で十代で死ぬはずだったことを述べたあとで、「とにかく、戦争になると、何が起こるか、わからない。いや、とんでもないことが起る。それが戦争というもの。それだけは、どうぞ忘れないでと祈るばかりである」と、書いている。

お孫さんには「戦争をしても失うものばかりで、得るものなど何もない。戦争で日本が唯一得た平和憲法を、絶対に守っていかなければならない」と、言っていたそうだ。

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