福沢の「社会教育」の意味と構造2021/01/16 07:14

 福沢は『学問之独立』(明治16(1883)年)という本の中で、教育を文部省から切り離し、共同私有の私立学校にすることを主張している。 私的な結社が、教育を担う。 私的な結社で議論した成果を、外に向かって発信する。 慶應義塾そのものが、社中である。 学校であっても、社会教育機能を持ったもの。 官とは独立して展開するのが、福沢の「社会教育」の意味するところである。

 福沢は『学問のすゝめ』12編で、学問は読書の一課だけではない、知識、談話を交易し、著書、演説で散ずること。 それは結社でしかできない。 学問を、現在より広い、研究し、交流し、発表することと考えている。 同志が集まり、きちんと議論し、その成果を、結社の外の人に、働きかけてゆくのが、福沢の「社会教育」の構造だった。

 福沢の晩年、明治33(1900)年2月、門下生が「修身要領」をつくった。 「修身要領普及講演会」は、全国各地で開催された。 明治33年夏、福沢は廃塾して三田の土地を売って、「修身要領」の普及に充てようと言い出したが、長男一太郎や鎌田栄吉が反対して、実現しなかった。 福沢がそこまで「社会教育」にこだわった意味を、考えなければならない。 一つは、明治30年代、慶應義塾が、志を同じくする人が集まって学問し、交流する場にならなくなっていた、と福沢が考えていたからだろう。 今、改めて、現在の慶應義塾はどうなのかを、考えなければならない。

 「社会教育」は、学校教育を相対化するのに、重要だ。 教育委員会に「社会教育主事」という役職がある。 3年前の中教審の答申では、「社会教育」マインドを持った教師が必要だとされている。 しかし教職課程で、国は必修科目を多くし、選択科目は狭められている。 慶應のように「社会教育」の科目がある大学は珍しい。 教職課程で重要で、福沢がかかわっている「社会教育」が、慶應義塾の中で存続していければと考えている。

 米山光儀教授の講演だが、今まで「小人閑居日記」に書いたものを、ご参考までに挙げておく。 今回の話は、2009年3月28日、福澤諭吉協会の第105回土曜セミナー「社会教育史の中の慶應義塾」で詳しく聴いていた。

福沢は表慶館での自分の展覧会を、どう思うか<小人閑居日記 2009. 2.10.>
『学問のすゝめ』と、明治政府の「学制」<小人閑居日記 2009. 2.11.>
教育政策についての福沢の批判<小人閑居日記 2009. 2.12.>
慶應義塾の教育<小人閑居日記 2009. 2.13.>
福沢諭吉と社会教育<小人閑居日記 2009. 3.30.>
山名次郎の『社会教育論』<小人閑居日記 2009. 3.31.>
「修身要領」普及講演会から地方巡回講演へ<小人閑居日記 2009. 4.1.>
石田新太郎と成人教育協会<小人閑居日記 2009. 4.2.>
米山光儀さんの「「修身要領」再考」(1)<小人閑居日記 2012. 5. 23.>
米山光儀さんの「「修身要領」再考」(2)<小人閑居日記 2012. 5. 24.>
「修身要領」と教育基本法(1947年)<小人閑居日記 2012. 5. 25.>