『西洋事情』と「政体書」、廃藩置県・学制と『学問のすゝめ』2021/01/19 06:55

 「要するに、明治の偉大さは、民主化、自由化にあった。また開国して西洋の事物に向き合い、これに対応するために、多くの制度を変革し、日本文化の根底を損なうことなく、国民の自由なエネルギーの発揮を可能ならしめたことにあった。」と断言する、北岡伸一さんの『明治維新の意味』(新潮選書)での福沢諭吉の扱いは、当然大きい。

 「ただ、彼らは西洋文明を無批判に受け入れたわけではない」として、啓蒙思想の第一人者とみなされた福沢諭吉の『学問のすゝめ』第15編「事物を疑って取捨を断ずる事」を挙げる。 福沢は西洋かぶれを戒め、日本の方が西洋より優れている例を、現在の文庫本3ページにわたって、猛烈な勢いで書き連ねている。 北岡さんは「福沢を皮相な西洋かぶれという人は、『学問のすゝめ』すらきちんと読んでいない人なのである。」と断ずる。

 慶応4年3月14日(1868年4月6日)の「五箇条の御誓文」と密接に関係していたのが、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)にまとまった統治機構を示した「政体書」(コンスティテューションの直訳)である。 「政体書」について、北岡伸一さんは、こう書いている。 その政治体制はアメリカ合衆国を思い起こさせるものがあり、権力分立の思想が色濃く取り入れられた。 それはアメリカ合衆国憲法がモデルになっており、慶応2年から刊行された福沢諭吉の『西洋事情』がヒントとなっている。 福沢は、のちに『西洋事情』を外国紹介の知識の切り売りと謙遜しているが、『西洋事情』におけるアメリカの思想の紹介は実に鋭いものがある。 松沢弘陽(ひろあき)は、『西洋事情』におけるアメリカの独立宣言とアメリカ憲法の翻訳を、日本の翻訳史に残る傑作であると激賞している。

 「明治4年に断行された廃藩置県こそは、維新革命の性格を決定づけ、またその後の方向を決めたもっとも重要な決定であった」と、北岡伸一さんは言う。 そして、新政府の本質は攘夷であると信じ、その行方を深い懸念を持って見守っていた福沢諭吉は、廃藩置県を知って、この盛事を見たる上は死すとも悔いずと、狂喜乱舞したという。 福沢の『学問のすゝめ』初編は明治5年2月に出ているが、これは、廃藩置県に対する歓迎、興奮から出たもので、この方向を推進したいとして執筆したものであった、と北岡さんはいう。

明治5年8月(1872年9月)、「学制」が定められた。 その理念は、第一に、学問は身を立てる基礎であるとして、立身出世との関係が強調された。 第二に、士族とそれ以外を問わず、また男女の別を問わず、国民すべての義務であるということが強調された。 第三に、いたずらに暗記に走り、「空理虚談の途」に陥ってはならないと、実学の重要性が強調された。 このあたりには、福沢諭吉の影響が感じられる、として北岡さんは、明治5年2月に『学問のすゝめ』初編が刊行されたことを指摘している。

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