伊藤博文、大久保利通、福沢、外国体験の影響2021/01/20 07:20

 北岡伸一さんの『明治維新の意味』で、明治憲法制定と伊藤博文、そして大久保利通や福沢諭吉の関連を見てみよう。 明治15(1882)年3月、伊藤博文は憲法の研究のために渡欧し、政府首脳の旅行としては異例に長い1年5ヶ月の期間をかけた。 北岡さんは、それは明治国家の建設に決定的な影響を及ぼし、明治4~6年の岩倉使節団に匹敵するほどであり、文久年間の遣欧使節団で福沢諭吉ら知識人が、西洋文明の全体像を受容し日本にもたらしたのと、あわせて三大旅行といってよいと思う、とする。

 大久保利通の人生は、岩倉使節団の前後で二つに分かれると言われるほど、その海外経験が真剣であっただけに、異文化と接触した衝撃は大きかった。 終生、困ったと言ったことがないと言われた人物が、欧米との文化ギャップに、当時42歳で「もう年だ」という弱音を久米邦武に洩らした。 北岡さんは、この大久保の衝撃を、安政6(1859)年、開港直後に横浜を訪れたときの福沢諭吉の衝撃に比較している。 死ぬほど勉強してきたオランダ語が通じなかったときの福沢の衝撃は、想像にかたくない。 しかし福沢は立ち直って、英学に挑んだ結果、僅か半年で咸臨丸に乗るという幸運に恵まれた。 大久保は、英仏の文明に巨大な衝撃を受けたが、やはり立ち直って、近代化の課題に全身で取り組むようになるのである。

 伊藤博文は、憲法研究で、ベルリンのあと、ウィーンに移り、随員の河島醇(じゅん)が公使館勤務時代に師事していた、ロレンツ・フォン・シュタイン教授の教えを受けた。 シュタインは、日本に関心を持ち、横浜で刊行されていた『ジャパン・ウィークリー・メール』を購読し、その中に福沢諭吉の『時事小言』の紹介を読み、感銘を受けて福沢に直接書簡を送った。 シュタインの書翰に感激した福沢は、この書簡を『時事新報』明治15年6月2日号に掲載している。 そのやりとりから見ても、伊藤、シュタイン、福沢の意見は割合近かったことがわかる、と北岡さんは考える。