公議輿論と福沢の官民調和論 ― 2021/01/22 07:03
明治23(1890)年11月、議会が始まると、政府の期待に反して、政府を批判する議員が多数を占めた。 初期議会には政党と藩閥との対立があり、藩閥は富国強兵を目指し、民党は民力休養すなわち地租の軽減を求めた。 ただ、民党の藩閥批判は、官吏の特権や高圧的な態度、それに特権階級の贅沢に向けられており、富国強兵については、海軍軍拡が過大であるという批判以外は、必ずしも決定的に対立していなかった。
議会は閉鎖されることもなく運営され、やがては、かつては国賊呼ばわりされた民党から閣僚が登場し、さらには政党が政権を担当するようにもなっていく。 政権への参加は、ジグザクの道筋をたどりながら、着実に広がっていったのである。
福沢諭吉は、長年官民調和論を唱え、政党は政府の政策を好意的に検討し、できればそれを受け入れ、一方で藩閥政府は胸襟を開いて政党と提携し、できれば政党指導者を閣内に受け入れるように主張した。 それが実現されていった。 北岡伸一さんは、これは維新の理念である公議輿論が、勝利を納めたということでもあった、とする。 そして、世界の多くで、政治闘争がルール化されることはごく稀なことであり、平和裡の政権交代はまことに難しいもので、明治の初期議会は稀な成功例の一つなのである、という。
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