半藤一利さんの戦争と平和<等々力短信 第1139号 2021(令和3).1.25.> ― 2021/01/25 07:08
亡くなった半藤一利さんの『漱石先生ぞな、もし』正・続は文藝春秋刊だが、 漱石俳句を扱った『漱石先生 大いに笑う』は講談社刊だ。 それぞれの扉カッ トは、作者自身(面白い絵だ)、和田誠、安野光雅と別なのを、今、ひっくり返 していて気づいた。 三冊目の題、『文藝春秋』昭和24年6月号「天皇陛下大 いに笑う」、サトウハチロー、辰野隆、徳川夢聲の三人が昭和天皇の前で「バカ ばなしをして、陛下はうまれてはじめてお笑いになった」座談会を端緒に、こ の雑誌が急発展した言い伝えがあるそうだ。
昭和史を伝え続けた半藤一利さんの根底には、14歳で昭和20年3月10日 の東京大空襲に向島の自宅で遭い、焼夷弾が土砂降りのように降る中を逃げ惑 い、川で溺れて死にかけた体験があった。 日本は、なぜこんな無謀な戦争に 突き進んだのか。
旧制長岡中学から昭和23年に旧制浦和高校へ進んで、初めてオールを手に して以来、昭和28年に東大を出るまでボート部にいて、隅田川で漕いでいた という。 『半藤一利と宮崎駿の 腰抜け愛国談義』(文春ジブリ文庫)に、 こんな話がある。 第一次世界大戦後の大正11年のワシントン海軍軍縮会議 の軍縮条約で、激烈をきわめていた世界の建艦競争が急停止となる。 国の財 政がもたないからだ。 主力艦(戦艦と空母)の保有量が制限されて、日本は 対米英6割とされる。 そのため計画で準備していた鉄と工員が大量に余った。 それを何とかしなきゃいけないということで、隅田川に橋がバンバン架けられ た。 比較的最近の新大橋(昭和52年竣工)を除けば、みんな立派な鉄の橋 で、しかも構造の異なった橋がいろいろあって「橋の博覧会」と言われている。 永代橋が大正15年の竣工で、以降、昭和7年の両国橋まで、つぎつぎと架橋 されたが、設計と工事を請け負ったのは、浦賀船渠や三菱重工といった造船会 社だった。 もし軍縮とならずに、軍艦や空母になっていたら、すべて海の藻 屑と消えていたことになる。 半藤さんは、そうならずに隅田川の橋は、いま なお我々の暮らしに貢献してくれている、平和とはいいものです、と言う。 い ずれにせよ、昭和初期の日本では一挙にインフラが整備され、井の頭線とか京 王線も、ことによるとその余りでつくったのかもしれない、と。 荒川放水路 をつくった費用が、巡洋艦一隻分だったそうだ。
半藤さんは、千鳥足で転んで大腿骨を骨折、リハビリ病院での猛烈な訓練に、 朝日新聞の連載を断念した「歴史探偵おぼえ書き」の最終回(2019年9月28 日)に、小林一茶の<この所あちゃとそんまの国境(くにざかい)>を引いた。 「あちゃ」は信濃方言、「そんま」は越後言葉で、ともに“さよなら”の意。 越 後長岡にゆかりある半藤さんは、こんな最後の挨拶を送っていた。 「じゃあ、 そんまそんま」
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