事の勝敗はその事に当る人物の如何に因る2021/02/16 06:59

 永井荷風の『問はずがたり・吾妻橋 他十六篇』(岩波文庫)は、I部が小説10編と戯曲、II部が随筆7編から成っている。 随筆に「冬日の窓」という昭和20年12月10日草、敗戦4カ月後の一文がある。 心に染み、大事だと思うところを抄録してみたい。 永井荷風、私が子供の頃に新聞報道などで感じていたような、ただの「スケベ爺ィ」ではなかったのだ。

荷風は熱海の町端(まちはずれ)の或家の窓から、隣家の畠にも、山にも空にも海にも、隈なく日が公平に輝きわたっているのを、眺めている。 室(へや)にはまだ火鉢もないが、窓に倚る手先も更に寒さを感じない。 過去、日本の文学は戦闘の舞台として、しばしば伊豆の山と海とを紹介している。 しかし、今、荷風が親しく窓から見る風景と、身に感じる気候とは、穏やかで、軟らかなのだ。 昭和現在の時勢に阿(おもね)る心で言うのではない。 日本の自然のあらゆる物は、子供の時からそういう心持をさせていたのである。

 その国の気候風土のかくまで穏和なるに反して、何故にその歴史が戦乱の断続によって綴り成されているのか。 風土の穏和は何故にその感化を民族の心情に及ぼすことが少なかったのか。

 昨日までわれわれは「平和」を口にすることを堅く禁じられていた。 戦いに破れて、人は再び平和を知るに至った。 敗衂(はいじく)はわれわれを救った。

 武器の優劣は何人の目にも見える勝敗の原因である。 隠れたものは尋ねにくい。 日毎にその言論と行動とを取り替える人達の情操の如きも、隠れたる勝敗の原因とまた全く関係がないとも言われまい。 正義観念の確立は民族の光栄を守る強力の武器である。 これ無きところに平和の基礎は置き得ぬであろう。

 正義の観念は何に依って養われるか。 一たび養い得るも、時あればまたこれを失うことがあるだろう。 百年のむかし亜墨利加(アメリカ)の船は相模の浜辺に来て江戸の都を脅した。 当時の政治家は国民の一人をさえ傷けず、しかもまた名実ともに、敗衂亡国の汚名から国を救った。 今日の事態は全くそれと相反している。 原因は何か。 その探究は現在のみならず将来を戒しめ将来を安全ならしめる道を示す手段になるであろう。 現在の窮乏を救おうが為に、政体の変革を叫ぶものがある。 しからざるものもある。 各観るところ信ずるところに依るのであろう。 これに対してわたくしはただ是非判別の識見に富まざることを憾(かな)しまなければならない。 しかしただ一言、わたくしは言うべき事を知っている。 事の勝敗はその事に当る人物の如何に因る。 ただこの一語である。 人物の如何とは、即ち誠実の有無、正義観の強弱をさすのである。 信念の如何を謂(い)うのである。  (つづく)

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