日本海海戦の大勝利の真因2021/02/20 07:01

 バルチック艦隊が、明治38(1905)年5月18日に、仏印のヴァン・フォンを出港したという情報が伝えられてから、艦隊が対馬海峡か、あるいは北の津軽海峡か宗谷海峡から来るかという問題は、待ち構える海軍連合艦隊ばかりでなく、国民的話題であって、夏目漱石も連載中の『吾輩は猫である』で、猫に「鼠の奴がどこから来るか、戸棚の後ろか、流しの下か、縁の下か、三つのコースのどれか選ぶのが難しい。東郷さんの苦労がしのばれる」と言わせている。

 秋山真之連合艦隊兼第一艦隊参謀以下は、22日か23日に対馬海峡から来ると確信していた。 25日までに姿を見せなければ、北に回ったと考えられ、艦隊の各艦艇には、25日午後3時に開封する密封命令が届けられていた。 密封命令には、「敵は北海に迂回したと推断、北海道の渡島大島へ移動せんとす」とあった。

 第二艦隊参謀長の藤井較一大佐は、秋山参謀以下の北海移動方針に反対で、24日旗艦三笠に単身乗り込んで、反対を力説し、大議論となった。 藤井と兵学校七期同期の加藤友三郎参謀長がとりなし、25日午前9時に連合艦隊の全幹部を旗艦に集めて会議を開き、改めて藤井の意見を聞いて、協議することにした。 会議に風雨荒波の中一番遠方から最後に来た島村速雄少将第二艦隊第二戦隊司令官が、加藤少将の「敵はどこへ行く?」という問いかけに、「どこって、対馬海峡よ」という。 島村も兵学校七期の同期だった。 東郷平八郎大将は、島村と藤井の二人を司令長官室に呼び、静かなところで意見を聞いた。 そして、密封命令の開封を一日延期、26日午後3時の開封とした。

 26日朝、日英同盟のあった上海のイギリスの武官から大本営に、ロシアの石炭船、食糧運搬船が入港したという情報がもたらされて、バルチック艦隊は東シナ海にいることが判明した。 連合艦隊は「密封命令を直ちに廃棄せよ」という命令を全軍に出す。 27日朝、午前2時に、最前線にいた信濃丸から「敵艦見ゆ」の電報が届く。 27日、28日の二日間、日本海海戦となり、大勝利を得ることになる。    (つづく)