永井荷風の短編「或夜」前半2021/02/11 08:32

 スカトロジーではないけれど、かすかににおうものを読んだ。 12月28日の「永井荷風と広尾光林寺ヒュースケンの墓」に書いたような事情で、たまたま読んだ永井荷風の『問はずがたり・吾妻橋 他十六編』(岩波文庫)に、昭和21(1946)年10月草の「或夜」という短編がある。 荷風が昭和21年1月から亡くなる昭和34(1959)年4月まで住んだ市川が舞台である。

三人姉妹の末っ子、季子という17歳の若い娘が主人公だ。 二人の姉がそれぞれ結婚してしまった後、母と二人埼玉県のある町に疎開していたが、この春母が病死して、さしあたり行く処がないので、銀行員に片付いている一番上の姉の市川の家に引き取られたのだった。 季子は折々、憂鬱になると、ふらりと家を出て、蟇口に金さえあれば、映画館に入ったり、闇市をぶらついて立喰いをしたりし、しばしば省線の市川や本八幡の駅の待合所で休むことがあった。 この辺の町には新婚の人が多いせいでもあるのか、夕方から夜にかけて、勤め先から帰ってくる夫を出迎える奥様、また女の帰って来るのを待合わす男の多いのに心づいていた。

 季子は、姉の家が居づらいのではないけれど、自分はさし当りここより外に身を置く処がない事を意識するのが、情けなくていやなのである。 どんな職業でもかまわない、女中でも子守でも、車掌でも札切でもいいから、どこかに雇われたいと思っているが、それは姉夫婦が許してくれそうもない。 会社や役所の事務員には、疎開や何かで高等女学校は中途で止していたので、採用される資格が無い……。 二番目の姉は、ずっといい処に片付いていて、鎌倉の屋敷から尋ねて来た時、この頃は復員でお嫁さんを探しているものが多いから、季子もいっそ結婚させてしまったほうがいいかもしれないと、言っていたのを蔭でちらりと聞いた。

 待合所で、背広に鳥打帽を冠った年は24、5、子供らしい面立ちの残っている男が、京成電車の市川駅はどっちか、と聞いた。 京成電車にそんな駅はないと答えると、省線ばかりなんですか、失礼、失礼、と出て行った。 しばらくして季子が家へ帰る途中、先ほどの青年が声をかけてきた。 国道には小屋掛したおでん屋汁粉屋焼鳥屋などが出ている。 同じ方向に歩いていた男が、「お汁粉一杯飲んで行きましょうよ。」と。 勧められるまま二杯目を飲む頃には大分気も落ちついてきて、まともに男の顔や様子を見られるようになり、それと共に、こうした場合の男の心持、と云うよりは男の目的の何であるかも、今は容易(たやす)く推察できるような気がして来た。 二人はもとより知らない人同士である。 これなり別れてしまえば、互に家もわからず名前も知られる気づかいがない。 何をしても、何をされても、後になって困るような事の起ころう筈がない間柄である。 そう思うと年頃の娘の異性に対する好奇心のみならず、季子は監督者なる姉夫婦に対して、その人達の知らない中に、そっと自分勝手に大胆な冒険を敢てすると云う、一種痛快な気味のいい心持の伴い起るのを知った。

季子の運命や如何? 長くなったので、それは、また明日。

淋しく暗い畠の小径で…2021/02/12 08:06

 汁粉屋を出てから、また黙って歩いて行くと、商店の燈火は次第に少なく、両側には茅葺の屋根やら生垣やらが続き始め、道の行手や人家の間からも茂った松の木立の空に聳えるのが、星の光と共に物淋しく見えはじめる。 人の往来(ゆきき)も一歩一歩途絶え勝ちになる。 鳥打帽の男は、黙ってついて来る。

 季子は汁粉屋にいた時の大胆不敵な覚悟に似ず、俄に歩調を早め、やがて道端のポストを目当に、逃げるようにとある小径に曲ろうとした。
 男はぐっと身近に寄り添って来て、
「お宅はこの横町……。」
「ええ。」と季子は答えた。 しかし季子の家は横町を行尽して、京成電車の踏切を越し、それからまだ大分歩かなければならないのだ。 小径の両側には生垣や竹垣がつづいていて、国道よりも一層さびしく人は一人も通らないが、門柱の電燈や、窓から漏れる人家の灯影で真の闇にはなっていない。 季子の呼吸は歩調と共に大分せわしくなっている。 男はどこまで自分の後をつけて来るのだろう。 線路を越した向の松原――時々この辺では一番物騒な噂のある松原まで行くのを待っているのではなかろうか。 いっそ今の中、手出しをしてくれればいいのにと云うような気がして来ないでもない。

生垣が尽きて片側は広い畠になっているらしく、遥か向うの松林の間から此方へ走って来る電車の灯が見えた。 季子はあたりのこの淋しさと暗さとに乗じて、男が手を下し初めるのはきっと此辺にちがいない。 いよいよ日頃の妄想の実現される時が来たのだと思うと、忽(たちまち)身体中が顫(ふるえ)出し、歩けば転びそうな気がして、一足も先へは踏み出されなくなった。 畠の縁に茂った草が柔く擽(くすぐ)るように足の指にさわる。 季子は突然そこへ蹲踞(しゃが)んでしまった。

季子は男の腕が矢庭に自分の身体を突き倒すものとばかり思込んで、蹲踞むと共に眼をつぶって両手に顔をかくした。

電車は松林の外を通り過ぎてしまった。 けれども自分の身体には何も触るものがない。 手をはなし顔をあげて見ると、男は初め自分が草の上に蹲踞んだのに心づかず、二、三歩行き過ぎてから気がついたらしく、少し離れた処に立っていて、
「田舎道はいいですね。僕も失礼。」と笑を含む声と共に、草の中に水を流す音をさせ始めた。 男は季子の蹲踞んだのは同じような用をたすためだと思ったらしい。

季子は立ち上がるや否や、失望と恥しさと、腹立たしさとに、覚えず、「左様なら。」と鋭く言捨て、もと来た小径の方へと走り去った。

買い出し電車の地獄、〈手入れ〉〈検問〉2021/02/13 07:06

 永井荷風の『問はずがたり・吾妻橋 他十八編』(岩波文庫)は、長編「問はずがたり」の上の巻が昭和19年12月戦争中の脱稿なだけで、あとはすべて昭和20年8月15日の敗戦後の作品になっている。 そこで戦争直後の、世相や生活、人情が色濃く描かれている。 当時まだ幼児で詳しいことを記憶していない私などには、時代の記録として、貴重なものではないかと思われる。

 昭和23(1948)年1月の短編「買出し」は、「船橋と野田との間を往復している総武鉄道の支線電車は、米や薩摩芋の買出をする人より外にはあまり乗るものがないので、誰言うとなく買出電車と呼ばれている。」と、始まる。 東武野田線、今はアーバンパークラインというおしゃれな名前になっている路線である。

 そこを走っていた電車は、「車は大抵二、三輌つながれているが、窓には一枚の硝子もなく出入口の戸には古板が打付けてあるばかりなので、朽廃した貨車のように見られる。板張の腰掛もあたり前の身なりをしていては腰のかけようもないほど壊れたり汚れたりしている。一日にわずか三、四回。昼の中(うち)しか運転されないので、いつも雑踏する車内の光景は曇った暗い日など、どれが荷物で、どれが人だか見分けのつかないほど暗淡としている。」という状態だった。

 この雑踏した買出電車が朝十時頃のこと、列車が間もなく船橋の駅へ着こうという二ツ三ツ手前の駅に来かかるころ、誰が言出したともなく船橋の駅には巡査や刑事が張込んでいて、持ち物を調べるという警告が電光の如く買出し連中の間に伝えられた。 どこでもいいから車が駐(とま)り次第、次の駅で降りて様子を窺(うかが)い、無事そうならそのまま乗り直すし、悪そうなら船橋まで歩いて京成電車へ乗って帰るがいいと言うものもある。 乗客の大半は臆病風に襲われた兵卒も同様、男も女も仕度を仕直し、車が駐るのをおそしと先を争ってプラットフォームへ降りた。

 10日に85歳で亡くなったTBSテレビの演出家で社長室顧問の鴨下信一さんに、『誰も「戦後」を覚えていない』という文春新書(2005(平成17)年)がある。 「殺人電車・列車」の章、「買い出し列車の地獄」に〈手入れ〉と〈検問〉の話があった。

 「帰りの列車がまた本当の地獄だった。人間だけでもいっぱいなのに、荷物が加わって二倍になる。怒号と悲鳴。職業的カツギ屋の荷物はあのでっかいのが二箇も三箇もある。/途中で〈手入れ〉がある。武装警官は、巻きゲートルにピストルまで手にしている。これが列車をとりかこんで全員降車が命令される。そうすると、あの大きな荷物が手渡しで警官のいない側に渡され、窓から放り出される。すでにそこに待機していた仲間が、それをまたどこかへ素速く持って行く。関係のないシロウトの乗客も手伝わないわけにはいかない。こうした狂乱と混乱がしじゅうあった。/〈手入れ〉がなくても〈検問〉があって、カツギ屋でないぼくたちも安心できない。野菜類はお目こぼしがあったが、米はもちろん、イモも容赦なく没収された。/ヤミを一切せず、買い出しも家族に厳禁して栄養失調で命を落とした東京地裁の山口良忠判事のような人もいたが、一般の庶民はこれまた命がけで買い出し列車に乗っていた。」

敗戦後すぐ襲った、食糧難とインフレーション2021/02/14 07:43

 永井荷風の短編「買出し」の、おかみさんは、電車を降りて歩く途中で、ある事情で(ちょっと書きづらいのだが、一緒に二人で歩いていた婆さんと一休みして握り飯を食べていたら、婆さんが死んでいた)、買い出してきた薩摩芋と、婆さんの荷物の白米と、手早く入れかえてしまう。 その頃、薩摩芋は一貫目六、七十円、白米は一升百七、八十円まで騰貴していた。 おかみさんは、道を急ぐ間に、自転車に乗った中年の男に会う。 最近は一升二百円だって言うじゃないかというのを、百八十円で買ってきたと言って、一斗五升を五円乗せて百八十五円で売る。

 鴨下信一さんの『誰も「戦後」を覚えていない』「預金封鎖―ペイ・オフは昔からあった」の章の冒頭に、敗戦後すぐ、食糧難と同時に襲ってきたのは、とめどもないインフレーションだったとして、当時の物価のデータがある。

 昭和22年7月、政府発表の賃銀物価体系で、一般物価は戦前(昭和9~11年の平均)の65倍、米価は同32倍だった。

 露店・ヤミ市相場(昭和21年『毎日年鑑』による)
     昭和20年12月     昭和21年2月
リンゴ   3個・10円       2個・10円
汁粉    1杯・5円        1杯・10円
スルメ   1枚・3円        1枚・4円
ふかし甘藷 3個・1円        1個・1円
ネギ    15本・10円       7本・10円
大根    1本・4円        1本・8円
軍用靴下     5円          20円
ワイシャツ    80円          200円
白足袋      25円          40円

「預金封鎖」「新円切替え」「臨時財産調査」2021/02/15 07:04

鴨下信一さんの『誰も「戦後」を覚えていない』「預金封鎖―ペイ・オフは昔からあった」の章の核心は「預金封鎖」の話だ。 昭和21年8月に厚生省が全国勤労者標準五人家族を対象に行なった調査で、一ヶ月の平均実収504円40銭、支出は844円80銭、差引き赤字340円40銭とひどいものだ。 物価に賃金が追いつかないうえに、もっと怖ろしい残酷なことが起こっていた。 「預金封鎖」だ。 終戦から半年後、昭和21年2月17日の朝、それは突然やってきた。 渋沢敬三大蔵大臣は、2月16日までに預けられた預金、貯金、信託等は生活維持のために必要な金額、一家の世帯主300円、その他の人は一人100円までを毎月認める以外、当分の間自由な払出しは禁止となること、さらに現在通用している100円以上の紙幣は来月2日いっぱいですべて無効になる、と発表した。

 「預金封鎖」は、「新円切替え」とセットになっていた。 すぐにも通用しなくなる旧券は、一定の金額しか新券と引換えられなかった。 あとは預金せざるを得ない。 預金すればたちまち封鎖扱いになるのだ。

 さらに旧券が無効になる当日、3月3日に「臨時財産調査」を行うこともセットになっていた。 すべての現金が新円切替えの中で強制的に金融機関に預け入れさせられる。 これですべての財産(貴金属等を除く)が把握出来る。 これに〈財産税〉をかけるのだ。 財産税徴収後に預金封鎖を解除すればいい。 この臨時財産調査令では、3月3日午前零時における預貯金、有価証券、信託、無尽、生命保険契約などの金銭的財産の申告を4月3日限り金融機関を通じまたは直接税務署に提出する義務が課せられることになった。

 こうした暴虐といっていい施策を政府が案出した最大の原因は、「戦時補償」債務があったからで、国債を大幅に消却し、莫大な国庫の重荷を整理することにあった。 これらの施策の最大の問題点は、この措置の法律的裏付けが「緊急勅令」という非民主的形式でなされたことだという。

 勅令第八十三号・金融緊急措置令―預金封鎖と支払停止
 勅令第八十四号・日本銀行券預入令―既発券の失効と旧券を預入させる
 勅令第八十五号・臨時財産調査令

 荒和雄『預金封鎖』(講談社文庫)によれば、十分な国会討議はなされず、即日実施された、この預金封鎖の際実施した法律が現行法として生きているから、「平成の預金封鎖」も法律、政令ではなく省令で十分実施出来るという。

 平成に出来ることは、令和でも出来るのだろう。 現在の日本の財政や日本銀行の状況を考えると、恐ろしいことだと言わざるを得ない。 新聞やテレビで、もっと問題にしてもいいのではないか。 と12日夜、ここまで書いたら、日本テレビで佐藤東弥監督の映画『カイジ ファイナルゲーム』(2020年)をやっていて、「預金封鎖」というセリフが聞こえて来た。

(参照 : 国債依存・財政破綻の先例、1945年11月<小人閑居日記 2018.8.6.>)