小人国でのガリバーの自然の欲求2021/02/06 07:05

 第1部 リリパット国渡航記は、ご存知の小人国、背丈15センチにも満たぬ人のいる国に、ガリバーが一人漂着し、地面に縛り付けられている場面から始まる。 帝(みかど)は、ガリバーが陸に流れ着き、岸辺で眠っている報告に接するや、彼を縛らせ、多量の飲食物を調達し、ガリバーを都に運ぶ機械の用意を指示していた。 この決断は、非常に危険で大胆なもので、同様な事態が訪れたら、ヨーロッパの君主がよもやこれを見習うことはないだろう、とガリバーは言っている。 実にこれは、きわめて賢明かつ寛容な決断で、ガリバーがありったけの力をふるっていたら、彼らには抵抗のしようもなかった。

 人びとは、ガリバーの動きを見て何をするつもりか察し、大勢の人たちが左側の紐を緩めてくれた。 それで体を右に回せて、小用が足せるようになり、そちら側にいた人びとがただちに右へ左へ避難したので、大量のそれを放出した。 避難した人びとは、すさまじい轟音を伴って降ってきた豪雨を逃れることができた。

 ワインの樽に混ぜられた睡眠剤でぐっすり眠っていたガリバーは、何年か前に非道の殺人が行われたため使われていなかった、帝国最大の古い寺院を、ねぐらとするように運ばれ、鎖でつながれる。 注釈によると、この寺院はホワイトホール寺院を暗示している。 清教徒革命のさなかの1649年、王チャールズ一世がその敷地内で斬首された。

 数時間前から、ガリバーは自然の欲求に激しく駆られていた。 無理もない、もう二日、何も出していないのだから。 与えられた住処に這い戻ると、中に入って門を閉め、鎖を精いっぱい引っぱって行けるところまで行き、不快な荷を体から放出した。 だが、かくも不潔な行動に出たのは、この時だけで、これ以降はつねに、起床するや、まずは鎖をいっぱいにのばし戸外で用を足すのを日課とした。 毎朝、来客のある前に、この役を担う召使い二人が、けしからぬ物体を手押し車に積んで運び去るよう手配がなされた。

 (ちょっと想像してみると、背丈15センチ弱の人二人と手押し車では、とても処理できないのではないか。 特別のウルトラ重機や防臭設備が必要だと思われる。)

リリパット国の二大問題2021/02/07 07:58

 小人国「リリパット」で囚われの身になり「人間山」と呼ばれるようになったガリバーは、帝との間で、いくつかの決まりに同意することを条件に、ようやく解放された。 都には予告なしに立ち入らない、リリパット国に味方しブレフスキュ島の敵国が侵攻を準備中の艦隊の掃討に尽力すること、その他の条項を遵守すれば、臣民1728人を養うに十分な食料と飲料を日々与えられ、帝に自由に謁見できるという文書に誓約の上、署名した。

 リリパット国には、二つの大きな問題があった。 ひとつは国内での激しい党派争い、もう一つはきわめて強力な外敵による侵略の危険だ。 この帝国では二つの政党が闘争を続けてきた。 両者は靴のかかとの高低で互いを区別していて、トーリー党を思わせる「高踵(ハイヒール)党」と、ホイッグ党を思わせる「低踵(ローヒール)党」である。 帝は、政府当局と、帝が任命するすべての官職には「低踵派」のみ登用すると、決めていた。 しかし、皇位継承者の皇太子には、いささか「高踵」の傾向があり、現在権力を全面的に握っている「低踵派」は、それを懸念している。

 隣国ブレフスキュとの3年に及ぶ戦争の、事の起こりはこうだ。 卵の割り方に、卵の大きい側、すなわち尻から割る由緒あるやり方と、卵の小さい側、頭から割る方法とがある。 帝のお祖父様が幼い頃、卵を尻から割って、指を一本怪我し、父なる帝が「卵は頭の側から割るべし、これに背く者は厳罰に処す」と定めた。 この法律に民は猛反発し、これが元で六件の謀叛が起き、一人の帝が命を落とし、もう一人は帝位を失った。 この国内の騒乱を、ブレフスキュの君主が代々煽ってきたので、乱が鎮圧されるたび、追放された者たちはブレフスキュに逃れて庇護を求めるのが常だった。 これら「尻割派」の亡命者たちが、ブレフスキュの皇帝から非常な信任を得ているため、両国の間で血なまぐさい戦が起こり、三年の間、一進一退の戦いが続いている。 リリパット国は、主力艦を40隻、最良の陸海兵士も3万人失い、敵もこれよりさらに大きい損害を被った。 だが、彼らは目下、大艦隊を編制し、リリパットを襲撃せんと着々と準備を進めていたのだ。

ガリバー強敵隣国の侵攻を阻止2021/02/08 06:57

 ガリバーは敵の艦隊をまさに一網打尽でつかまえる計画を思いついたので、帝にお伝えした。 ブレフスキュ帝国はリリパットの北北東に位置する島で、あいだにはヨーロッパ式で幅800メートルの海峡があるだけだった。 海峡の深さを、経験豊かな船乗りたちに訊くと、真ん中でも2メートル弱だという。 命令を出せる帝の許可状によって、丈夫な綱と鉄棒を用意してもらい、鉄棒を曲げてフック50個をつくり、50本の綱につなぐと、ガリバーは海に入り、急いで海峡を歩き、真ん中の30メートルばかりを泳いで進むと、じきにまた足が底に触れた。 30分もしないうちに、艦隊のいるところに着いた。

敵の兵士はガリバーを見て、すっかり震え上がり、てんでに船から飛び込んで岸に泳いで逃げた。 用意の道具を出して、それぞれの船の舳先にフックを引っ掛けた。 この作業中、敵は何千本もの矢を放ち、それがガリバーの手や顔に刺さって、ひどく痛く、仕事にも邪魔だった。 目をやられたらいけないと気づき、眼鏡をかけた。 やがてフックをすべて掛け終え、束ねた綱の端を手に持って、ひっぱりにかかった。 ところが船はびくともしない。 どれもしっかり錨が下ろされていた。 そこでナイフを出して、錨につながった綱を次々、顔や手に二百本ばかり矢を受けながらひるまず切っていった。 それからフックのつながった綱の束を持ち上げ、敵軍最大の軍艦50隻を悠々と引いて行った。

ガリバーは、危険を逃れると、いったん立ち止まり、手や顔に刺さった矢を抜いて、以前到着時にもらった軟膏を塗った。 潮が少し引いてから、艦隊を引き従え、歩いて海を渡り、無事リリパットの帝港に着いた。 帝をはじめ宮廷の全員が岸辺に立って迎え、上陸したガリバーにその場で、最高の名誉と見なされている称号「ナーダク」を授けた。

 およそ三週間後、ブレフスキュ帝国から正式の使節団が訪れ、つつましく和平を乞い、リリパットの帝は非常に有利な条件で講和を結ぶことができた。

お后様の宮殿火事をガリバーが消した方法2021/02/09 06:59

 それからほどなくしての真夜中、玄関先で何百人もの叫び声がして、あわてて飛び起きた。 宮廷の方々が何人か、いますぐ宮殿に来てほしい、お后様のお住まいが火事なのだと告げた。 ガリバーの通り道を空けるように命令が出され、また幸い月の出ている晩だったので、どうにか誰も踏みつけたりせず宮殿に到着する。 見ればお住まいの壁には梯子がいくつもかけられ、バケツもふんだんに用意されているのだが、水は少し離れたところにしかなかった。

 もうどうしようもない。 万事休す、この壮麗なる宮殿も燃え尽きてしまうのかと思えたが、ガリバーの頭がいつになく落ち着いた働きを見せてくれ、ある方便が思い浮かんだ。 その晩、美味のワインをしこたま飲んでいた。 誠に幸運なことに、利尿作用のあるそれを、まだ少しも排出していなかったのだ。 これをガリバーは大量に放出し、しかるべき場所にきわめて効率よく行きわたらせたので、火事は三分もするとすっかり消え、建てるのに幾時代もかかったこの気高い建物の残りの部分は、無事に焼けずに済んだのだった。

 我ながら天晴れな奉公を行ったとはいえ、何しろやり方がやり方なので、帝がお怒りにならないか、心配だった。 この国の基本法には、いかなる身分の者であれ、宮殿の敷地内で放尿することは死罪とされていた。 帝からは「汝を公式に特赦するよう大法官に命令を出す」とのご伝言が届いたけれど、この特赦は結局降りなかった。 お后様がひどく気分を害され、宮廷の一番離れた側に移られて、あの建物はもう修繕して使う気はないとおっしゃり、側近の者たちの前でガリバーへの復讐を誓われたことが、伝わってきた。

 原田範行さんの注釈によれば、スウィフトは1704年に刊行した『桶物語』で糞尿について生々しく書いたせいで、不潔だ、下品だという表層的な批判を受けていた。 この部分は、『桶物語』の下品さに激怒し、スウィフトの昇進を妨げたアン女王(在位1702-14)の影を見る向きもあるという。 むろん上品とは言いかねるので、『「ガリバー旅行記」徹底注釈』(岩波書店)によれば、上品さを重んじた19世紀にはしばしば改変され、なんとガリバーがお上品にも大樽(そんなものがどこにあったのか?)を使って消火している挿絵が描かれたりもしている(朝日新聞9月4日夕刊に図がある)。

スカトロジー、『陰翳礼讃』の厠、三上2021/02/10 06:58

 『ガリバー旅行記』を読んで面白がり、その面白いところを伝えようとしたら、つい政治的な風刺とスカトロジー(糞尿譚)になってしまった。 日本の文学に、スカトロジーはあるのだろうか。 昔、「の、ような話」という一文を書いた(「等々力短信」第523号1990(平成2)年2月25日)。 杉浦日向子さんの『大江戸観光』(筑摩書房)を読むと、江戸のベストセラー作家・恋川春町に『芋太郎屁日記』という、代々語り継がれるほどの曲屁の名人、霧降花咲男(きりふりはなさきおとこ)、後に曲屁福平と改名した人物の伝記がある。 「その時此(この)子、たらいの内にて天に指さして、屁上屁下(へんじょうへんが)唯可屁糞尊(へくそん)と高らかに唱えける」と誕生する。 曲屁福平とその曲屁の実際については、かの平賀源内先生が『放屁論』という書物で、自ら聴いた三番叟を「トッハヒョロヒョロヒッヒッヒッ」と聴こえたと記しているそうだ。

最近、谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』で厠の臭いについて詳述しているが、若い人はわからないだろうと、誰かが書いていたのを読んだのだが、どこだったか思い出せない。 谷崎は、厠がただの不浄の場とならない条件として「或る程度の薄暗さ」、「徹底的に清潔であること」、「蚊の呻(うな)りさえ耳につくような静かさ」を挙げた。 そして厠の「風流」を、こう書いた。

「まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月の夜にもまたふさわしく、四季おりおりの物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人も此処から無数の題材を得ているであろう。されば日本の建築の中で、一番風流に出来ているのは厠であると云えなくはない。総べてのものを詩化してしまう我等の祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、却って、雅致のある場所に変え、花鳥風月と結び付けて、なつかしい連想の中に包むようにした。」

 そういえば、私もトイレで俳句が浮かぶことがある。 「三上(さんじょう)」と、文章を練るのに最もよく考えがまとまるという三つの場所をいう言葉がある。 馬上、枕上、厠上。 出典は、欧陽脩の「帰田録」だそうだ。 寝ていて、浮かぶこともある。 馬には乗らないから、今なら電車の中だろうか。 どれも、いい句が浮かんでも、あとで思い出せないのが難点だけれど…。