日本を国民国家にする福澤の方法2021/03/04 07:13

第II部「国民国家形成の構想」の第三節「文明史の中の国民国家形成」では、一昨日見た福澤が集中的に学んだ時期の、西欧の書物について述べられている。 福澤はウェイランドに代表される道徳科学とは全く異なる思想圏に属する、19世紀の30年代以降の古典的な書物に、その思想を根本から揺さぶられる衝撃を受けた。 ギゾー、トクビィル、ミル、バックル、スペンサーらを軸にした新しい思想の世界である。

J・S・ミルの『自由論』でも『功利主義論』でも、社会契約論は否定された。 ギゾーの『ヨーロッパ文明史』も、トクヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』も、キリスト教的な神の定める道徳法の義務の体系でなく、国民国家の形成と統合・代議政治・自由等についての、文明史の相の下での考察だった。 こうして福澤における国民国家は、社会契約論的な理念像から、文明の世界史の一局面となり、政治的義務の体系から、「方」と「術」を駆使して実現すべき、実践的な「目的」へと飛躍した。

『文明論之概略』と、『学問のすゝめ』九編以降で、福澤はそれを展開する。 ギゾーの『ヨーロッパ文明史』からは、絶対王政の下での「一つの国民と一つの政府」という構造の形成に始まり、「王室の政治」の「不流停滞」に対する「人民の智力」の進歩の革命にいたる、西欧における国民国家形成の歴史を知った。 「国民」が、西欧では「ネーション」と呼ばれる歴史的形成体であることに開眼し、『代議政治論』によって西欧の「ナショナリティー」という観念を知って、これをもとに「国体」という日本の伝統的な言葉に全く新しい意味づけをした。 さらに国民国家=「一国」「国」というものは、政府と、政府と拮抗しつつ「一国」を主体的に担う国民との統一体であるという構造を、福澤は理解した。

西欧における国民国家形成の歴史は、日本におけるそれについての歴史的展望をも可能にした。 「王政維新」は、英仏両国の革命と同じ性質の「大騒乱」だとされた。 天明・文化期に始まる長い「門閥専制」の「不流停滞」と「人民の智力」の進歩とが原因となって、攘夷をスローガンとして利用した「革命」を帰結したとしたのである。

このような同時代理解から、さらに国民国家形成における現在の問題と将来に向かっての課題が照らし出される。 「国論」「衆説」を実質的に形成するのは「中人以上智者の論説」である。 彼らを通してその下の民衆に、国民国家を担うにたる「報国心」を育て、「同一の目的」に向かうよう組織化しようと企てたのである。 その具体化として、「人民の交際」を活発化し、「仲間」―自発的結社―の組織化とそれを支える「演説」「衆議」を発達させることを説いた。 福澤が重視したのは、文明の制度の「外形」ではなく、「精神」、制度それ自体ではなく、「働らき」であり、それらと一国人民全体の「習慣」との相互作用だった。 『文明論之概略』執筆の当時、新政府と民権派の間で公議輿論路線を具体化する民撰議院が最大の争点の一つに浮上していた。 福澤はいわばそれを横目に見て、「始めて真の日本国民を生ずる」課題を、議院という制度の創設よりは、人民一般の「交際」―「仲間」―「演説」「衆議」についての新しい「習慣」を形成することから進めようと構想したのである。

福澤にとって国民形成とは、各人各個の意見を抱いたまま自閉し分裂している意見を、下から、人民のレヴェルから「結合」することだった。 そのための「手段」の中心が、彼が西洋で出あった「仲間の組合」を基盤とする「衆議の法」だった。 そして、それを人民の規模で実現することは「習慣」の変革によってのみ可能だった。 福澤は、それを日本においても可能だ、しかし長い時を要すると覚悟したのだった。

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