議会を始めるには、まず演説・討論の練習から2021/03/08 07:06

 福澤は、新政府の公議輿論路線と、在野の民撰議院設立要求の、両者を視野に入れながら、どちらにも距離をおき、少数の同志を結集して独自の活動を始めた。 『学問のすゝめ』と『文明論之概略』に通じる一つの主題は、演説と討論であったが、明治6(1873)年頃からは同志とともに演説・討論の練習を始め、この年か翌年には『会議弁』を刊行した。 明治7年6月27日、社中14人で、三田演説会を発会、毎週一回の集会をたゆまず続け、発足当初は「討論会を活発にやって、その合い間に演説会」をやった。

 『文明論之概略』は、全編を討論・ディアレクティークへの関心が貫いていて、その全体が「異説争論」の「紛擾雑駁」の中に討論が成り立つにいたるプロセスを提示していたとさえいえよう。 これらを素材として、この時期における福澤の議会政理解をさぐってみたい。 第一に、議会を、政府に対する抑制均衡の機能でとらえるという思想は、それ以前から一貫している。 第二に、討論と言論の自由という思想。 第三に、議会の機能を人民全体の「習慣」や「気風」との相互作用でとらえるようになった。

 議会政の本質や機能をこのようにとらえていたとすれば、福澤が公議輿論をかかげる新政府の現実や民撰議院設立の運動に批判的だった背景も容易に理解することが出来よう。 「説を述るの法」を知らず、「集会談話の体裁」が成立しないのでは駄目で、現在の政府が一国の智者を集めながら「専制」におちいっているのは、長い「無議の習慣」ゆえに「衆議の法」を知らぬからだとした。 こういう条件のもとでは議院の席でも、予め書いた文書を読上げたあとは、議論が出来ず、引下がって再び筆をとる「筆談の集会」にならざるを得ず、「とても民選議院も官選議院も出来ますまい」(「福澤全集緒言」)。

 (このあたり、そのまま令和今日の議会を思わせるではないか。140年経って、まったく進歩していないのか。)