「籠絡」―その理論と歴史的背景と ― 2021/03/10 08:06
第二節は「演説・討論・籠絡―その理論と歴史的背景と」となっている。 この「籠絡」が問題だ。 私は2011(平成23)年10月29日、松沢弘陽さんの講演「『福翁自伝』を読みなおす―私にとっての福澤諭吉」(三田演説館、福澤研究センター・福澤諭吉協会共催) を聴き、松沢さんが綿密な校注を担当した「新日本古典文学大系 明治編」『福沢諭吉集』(実は『福翁自伝』だけの収録。岩波書店、2011年2刊)を手に入れた。 そして『福澤手帖』第152号(2012(平成24)年3月)に「『福翁自伝』の表と裏―松沢弘陽さんの読みなおし」を書かせていただいた。 その中で、松沢さんが『福翁自伝』の主題と、問題の「籠絡」について、こう書いていた。
「松沢さんは、全体を通じる主題を、閉された小社会の中の孤立した自我が「独立」に向かって自己形成する物語である、と読む。閉鎖的な藩地で疎外された孤立から出発し、自己を抑圧する政治体制と社会に働きかけ、あるいは巧妙にしたたかに戦い、たびたび自我の危機をくぐり、「独立」の内実を豊かにし、また深めてゆく。
演説館の講演に移ろう。松沢弘陽さんは、今日は福沢を「福沢先生」と呼ぶ慶應義塾の演説館での講演だが、その意味で、私にとっても「福沢先生」であると言う。例えば、「政治の診察医にして開業医に非ず」(『福翁自伝』の見出し)という福沢は、現代社会、日本でますます意味を持っている。一方、『福翁自伝』には、自分の信条に照らして、無条件に受け入れられない部分もあった。例えば、奥平壱岐を評した部分で、「大家の我儘なお坊さんで智恵がない度量がない。その時に旨く私を籠絡して生捕ってしまえば譜代の家来同様に使えるのに…」の、「籠絡」。これは福沢の行為のかなり多くを理解するキーワードではないか、と。私が理解できなかったこの「籠絡」については、『福沢諭吉集』に脚注があり、福沢を籠絡できない奥平壱岐と「門閥制度の下で弱い立場におかれているがゆえに壱岐をことばと態度の演出によって手玉にとる福沢との対照、またそのような関係についての福沢の自己意識が生き生きと描かれる」とあった。」
そこで『福澤諭吉の思想的格闘』の「籠絡」であるが、言葉自体の説明はなく、以下に引く、二か所に出て来る。 福澤のキイワード「異説争論」は両義的だった。 一方ではそれは、知的な生産と感情の次元にまで深まった相互の一体化を意味し、これを促すことが求められた。 他方ではそれは、異説の齟齬と紛争を意味し、それが「止」み「和」することが求められた。 決定的なのは、誤解と敵意の再生産に走ろうとする関係をいかにして相互理解と合意に転換しうるか、その方法だった。
『文明論之概略』全編を貫く「議論の本位を定る」という「事物の利害得失」を判断する方法、概念がある。 それは、意見が対立し、社会的な性格を異にする者が交わる場合に恐怖や敵意の感情が生じるような時、いかにしてそれを制御し、対立する意見やパーソナリティーを正確に理解するかという問題に連続する。
福澤は、「異説争論の際に事物の真理を求るは、猶逆風に向て舟を行るが如し。其舟路を右にし又これを左にし、浪に激し風に逆ひ」「航海には屡順風の便ありと雖ども、人事に於ては決して是れなし」という。 この帆船の間切り走法のメタファの背景には、九州と大坂を和船で往来した福澤の経験があったろう。 福澤のキイ・コンセプト「異説争論」の背景には、先ず幕末の「横議」「横行」(藤田省三)状況があった。 脱藩=横行という時代の大きなうねりは、福澤たち洋学派の若者をもまきこんでいた。 福澤自身、藩の上司を「籠絡」して事実上脱藩した。
福澤が「異説争論」の問題を最も身近に感じたのは、慶應義塾創業の経験だった。 「社中」の「会議」「集会」「商議」によって運営上の案件を決定し、学生の処分など重要事項については福澤も「塾のことは私の一了簡には行かぬ」と語っていた。
演説や討論についての福澤の議論は、社会的人間、とりわけ対立と緊張の中にある人間の心理と行動についての驚くベき鋭い洞察に裏打ちされていた。 ことばによる合意の形成の可能性に大きな期待をかけた福澤は、その難しさや限界についてもはっきりと自覚していた。 したがって、福澤において討論と、ことばやその他の〈パフォーマンス〉の「方便」による「籠絡」や「誘導」との境界は、流動的だった。 また、多種の自発的結社と議会とに担われた「衆論」の政治は、強固な「政権」の確立を当然の前提としていた。
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